年末年始の連休も今日で終わり、明日からいつもの日常が戻ってくる。

連休中は自宅の裏庭の木を伐採して過ごした。

ほとんど誰とも接しない日々。ひたすら過去の思い出に向き合って過ごした。

植樹した当時は草刈りの時間違って植樹した木を雑草と一緒に切断してしまい元妻に終わりなき説教を受けた記憶がある。

それでも切断された所から芽を伸ばして枝となり幹となって今では直径が10センチはゆうに超えている。

背丈も4mほどになっただろうか。

私が家を出た当時はまだまだ小さな木という感じだったけど今はもう立派な木に成長していた。

その木もこれ以上伸びると手がつけられなくなる。そう思い伐採を決行した。

こうやって知らぬ間に少しづつ少しづつ世の中も変わって子供達や木々も成長していくんだろう。

大人になって仕事をしていると毎日同じような業務をこなす。案件ごとに多少の違いはあるものの仕事としては変わらない。

そうやって忙しくしているうちに置いていかれる。

家に戻った当初シロアリに食われていた小屋も解体して穴に放置していた。

年が明けてから毎日伐採した木を細かくする作業をしていたら通りがかりの人に声をかけられて薪ストーブの薪にしたいとの事で伐採した木、そして廃材を持っていってくれる事に。

私たち家族の思い出の木。そして生活のために建てた小屋の廃材。それが誰かの心を暖めてくれる喜び。

人目を気にするタイプだけど、人目を気にせず作業をして良かった。声をかけていただいて本当に嬉しく思う。

本当は穴を掘って埋め腐るのを待つか小さくしたものは燃えるごみで出そうかと思っていた。場合によっては燃やそうかと考えたり。でも近隣の家もそこまで離れているわけではないから心配だなと考えていた。

「衰退のラッピング」というか「作ったものの管理、処分を思い出にする」というか、ただ壊して処分するではなく、そこにドラマや思い出の保存が出来れば良いと常々思っている。

新しい物を「買う」「作る」「導入」はその物に対する期待を持って受け入れその物たちは私たちに寄り添うわけだ。しかし人間同様永遠という事は無い。いずれ終わりを迎え自分の手元から離れていく。資産価値と考えるなら売却すれば良いのだが、それだけでは無いのが「人の心」ではないだろうか?

楽しい時、辛い時を共にしてきた物だから別れも惜しむわけで、別れが辛いのは人やペットだけでは無い。物にも愛着というのがある、そして物に接しているのは私たち人間だから。

そういう「別れ」「閉じる」「処分」などネガティブな側面に寄り添える事を考えて生きたい。

家族が共に過ごした物。それを解体したは良いけど何かの形に残す事が私の生きるテーマでありそれは有形、無形にとらわれない。

ここに誰かの暖を取る手段になる事をとにかく嬉しく思う。相手は私がこんなにも重い感情を抱いている事すら知らないだろう。

もしこれからも何かの形で繋がっていくのであればいずれお話ししたいけど、初対面でこの話は重すぎる。笑

利益とはお金だけのものではない。時間やその人の価値を感じる物の事だと認識している。

私としては今回の事が「利益」となった。相手もそうだと信じている。

今後、この考え方をビジネスに転換していきたいと思う。

生きていれば誰しも「思い出」がある。それを易々処分しては勿体ないと思う。

さらに言えば入手する時も簡単に買うのではなく1ヶ月我慢してみるだとか、ネットで買えるけど実店舗に出向いて苦労して運んでみるだとか人の行動と物の価値を増す入手法を提案してみたい。

何かを買う時「本当にいるか?」をいつも考えている。価格によってはすぐ手を出してしまいそうな時もあるし、欲しいとなればすぐに買おうとする。

ただ、本当に必要なものはいくら我慢してもいつかは手元に来る運命にある。

それが「本当に必要だった」という事であり私の「物を大切にする」という理論である。

今欲しいものはソファベッドと軽バン(車)なんだけどその二つは見積出したり、実店舗で実際に触れてみたりした。

しかしまだ買っていない。なぜ買わないか?「本当に欲しいから買わない」のだ。ずっと機会を伺っていて、その機会というのは「本当に必要な時」なんだろうと思っている。それを待ち続けている。欲しい想いを我慢する事でその物に対する想いを高めている。

その想いがなくなるようであればそれはいらない物だったという事なんだろう。


物も人も大切にしていく。