約十数年前、夜中キッチンに明らかな人の気配と物音を感じて確認しに行き誰も居なかった事があり、その2時間後祖父が亡くなったという連絡が来た経験をしている。

日曜の夜中、一階に明らかな物音を感じて、「あっ親父亡くなったのかな?」なんて考えていたら、朝、親父が亡くなったと連絡があった。

魂というのはあるのかもしれないと思っている。

具体的には洗って重ねてある食器が崩れる音、そして洗濯物を止める洗濯バサミをパチンと取る音。

祖父の時もドカドカと歩く音と食器が崩れる音。

2人ともあまり関わりがなく、とても懐いていたわけではない。父に至っては生まれた時からいないも同然。自分が子供を持ってからはその生き様に疑問しかない。

しかし2人がいなければ自分という人間は存在しないのもまた事実。

父に関しては見舞いに行かない事、死亡に関わる手続きに関わらない事、そして相続放棄する事。

それこそが父の私に対する対応を映した鏡なんだろうと思っている。

息子という立場から言わせてもらえば病に倒れたら見舞いに行きたいと思いたかった。息子として最期の手続きもしたかったし、責任を持って相続できる状態を把握していたかったと思っている。

関係性がしっかりしていれば苦楽を共にするのが親子であり家族だろうと思う。やむを得ず負債があるのであれば引き継いでいたであろう。

親父には言いたい。「親子、家族って本当はそういうもんだぜ?」って。

俺は綺麗事は言わないから、どれだけの人に迷惑かけたか、そして相続放棄で回避させるような状態を後世に残す事を重く受け止めてほしい。

息子、娘に言えない気持ちもわかる。でも責任ある人は自分で収集をつける。相談する。自己破産という手もあるわけだ。

そういう「責任」から逃げるスタイルは気に食わない。

一番気に食わないのは俺に「共に責任を背負うと思わせなかった事」関わりを持っていれば制御もできる。そして「やってあげたい」とも思っただろう。

他人のような関係でそう思えるわけがない。自分の都合しか考えない、自分のいいようにしかしない父の「逃げ」だ。

会社の代表者としての責任から逃げ、父親の責任から逃げ、親族の関係性からも逃げ。いつも逃げてきた。

俺は期待をしているから、改善できると思っているから、そういう関係構築をしたかったから、だから許さないし、見舞いに行かなかったし、手続きもしない。

実の息子にそういう想いをさせた事がどういう事か?今でも考えてもらいたいと思っている。

恨みもない、未練もない、悲しいという感情もない。俺は「無」というものを大切にしたい。

それは父であるあなたの責任だ。

あなたの生き方そのものが俺に映る。

実の父が他人のようだという悲しい事実を俺は大切にしたいわけだ。

それが自分に対する戒めになり自分の子供達にはそういう想いはさせたくないという感情になる。それが俺の後世に対する責任だと思う。


やはり家族というのは続いている。「何も無い」という関係すら最後まで残る。

だから離れていても想いたいし、繋がりを大切にしたいと思っている。