過去は悲しみで溢れている。
それは一般的な悲しみではなく戻れないという絶対的な不可能がそうさせろのだろう。
この感覚は離婚して子供達と離れた時に顕著に現れ始めた。
子供達とは日常的には会えないが会おうと思えばいくらでも会える。離れていても親子としての関係性が何一つ変わらない事は証明済みだ。
ならなぜこんなにも寂しいのか?
それは過去に戻れないからだというのが結論だ。
離婚しなければ気付かずにしばらく過ごす事はできていたかもしれないけど、何が寂しいのか?根本を考えた時、過去に戻れない事こそが寂しさの正体だという事に気づいた。
私の過去は特殊な環境の事が多かったけど、極端に不幸だったかというとそんな事もないし、本当の意味での不幸は大切な人に会うことすらできない環境こそが不幸なんだと思う。
その考えからすれば、子供達が生まれた瞬間から当時の彼らに会う事はもう二度とできないわけであり、同じ瞬間はもう二度と来ない。
あんなに小さな体であんなに小さな手足でたくさんの幸せを与えてくれた彼らをもう抱きしめることは無いのだ。
振り返れば苦楽共に幸せであり、それを感じる事こそが真の幸せなのだと感じている所で過去のそれすら感じられない今を生きると本当に寂しい。
何も考えず生きる事にがむしゃらな時はこれにすら気付かないけど自分の中で寂しさの正体はなんなのか?考えた続けた結果、子供達と離れた事や離婚して一人になった事が寂しいと錯覚していたけど一番の寂しさは「過去に戻れない事」であり、それを象徴する事として遺構が好きな事があげられる。
自転車でよく巡る場所は決まって過去ゆかりがある場所で、その面影が残る遺構は自分が安心できる場所なのだろう。
小さな頃、母親と散歩した道、父と見た貨物列車、子供達と巡った場所、今の状態と過去の記憶を辿り照らし合わせる事で安心しているのかもしれない。
夫婦不仲により結婚生活はかなり大変だったけど、大変さの中に子供達に支えられた部分が大きく辛さの中にもなんとも言えない推進力と安心感があり、その気持ちこそが私の幸せとして記憶に刻まれている。
そんな過去に触れたくて、苦しみを選択するためにペダルを回してみたり、ジムで殴られ蹴られを経験しているのかもしれない。そういう大変な思いをする事と子供達を考える事で推進力と安心感が得られるのではないか?という過去の経験を擬似的に今に反映して日々生活しているのかもしれない。
誰しも過去には戻れないわけで、この苦しみはおそらく同世代の人に話しても理解されないだろう。もしかしたら誰にも理解されないかもしれない。
自分の記憶が鮮明なせいか、幼少期を含めて目に映った場面がもう今は存在しない、同じ場面は二度と作れない、そう思うとやはり寂しい気持ちになる。人も成長すれば、建物も壊され新しくなる。全てを同じにする事は2度とない。
だから今という一瞬を大切にしなければいけないし、その一瞬を大切にすると今が過去になった時、また寂しさとなる。
生きるという事は寂しさの連続であり寂しさというのは幸せそのものなのかもしれない。