今日は雨だったので自転車に乗れなかった。

私は雨が好きだ。音や匂い、そして自転車が汚れる、寒いというくだらない理由で乗らない言い訳ができるから、普段できないことや雨音、匂いを感じゆっくりしたり、そんな時間ができる。

晴れの日に自転車に乗らないと自分の中で「乗れたのに乗らなかった」というレッテル貼りがされるため、乗れる時は必ず乗る、乗れない時に別の事をすると決めている。

今日は前に書いたキャンプ用のイスの代替イスを探しに家具屋を巡ってみた。選ぶ時間も大切だが、一度買えば毎日座るイスだから簡単には買わない。

お店で座りながらケータイをいじって自宅で使用のイメージをする。その店の一番を決めて次の店へ。

何件か回ったけどいいイスはなかなか無い。

あったとしてもその場で買う事はない。ほしい物はその時買わなくても思い出してまた買いに行くに決まってる!

価格の事、使い古した処分の事、日常での使用イメージ、などなど総じて自分が必要と思う物以外受け入れない。衝動が数日で消えればその商品は自分に合わなかっただけだ。

価格と満足度で満足度のウェイトが高ければその場で決断するかもしれない。ただ満足度の中には冷静に処分や思い入れのあるキャンプイスの存在との天秤もある。

軽い気持ちで即決した物に思い入れが生まれるとは思わない。気に入ったけど、一旦離れてそれでもまた買いに行くというエピソードがほしい。

価格とか、ブランドとかそういう問題ではなく「どうしてもほしいから買った」という気持ちが必要なのだ。


夜と霧

知人よりあなたにはこの本がピッタリと勧められて、そんなエピソードにより購入、今日到着し今日読み終えるだろう。

題名からしてなんとも寂しげで寄り添いたくなる。

ユダヤ人強制収容所の話。

本を途中まで読んで自分も幼稚園の頃ふとんの中でなぜか死ぬ事を考え怖くて眠れなくなった鮮明な記憶を思い出した。そんな幼い頃から死を考えた自分にも驚くけど、中学の頃図書室にあったユダヤ人大量虐殺の写真集を熱心に見た事を思い出す。

幼き頃から死に対する興味というか、虚しさを感じていたとすると何を考えその写真集を手に取ったか?なぜ幼い頃から悲しみや虚しさに接したり考えたりしたのか?

あまり信じていないけど前世があるとすれば廃墟や廃線路、戦争遺跡が好きなのは何か通づるものかあるのか?とか考えてしまいます。


人がどう生きて、どう死ぬのか?

物がどう作られて、どうなくなって行くのか?

事がどう始まって、どう終わって行くのか?


幼き頃から考えていたのかもしれません。

全てを大切にしたいから簡単には決断できない。少なくとも自分に関わる事で決断をする時はよっぽどの何かがなければ決断する事はない。

たかがイスだって決断できない自分が自分でめんどくさいと思うけど、小さな事まで大切にしたいから自分の気持ちに問うてあえて今日買わない。


人も物も本当に必要ならまた巡り合うようできていると思う。だからこそ自分の興味や思考に対して「何か意味があるのではないか?」と思ってしまいます。