過去の思い出がツラい。過去に囚われているのか?何かの精神的病いなのかわからないけど、そんな事を感じています。
誰でもそうなのでしょうか?
「いい事も悪い事も含め過去には戻れない」
「この一瞬、一秒は二度と無い」
死に一秒一秒近づく恐怖なのか?戻れないという事に囚われているのか?寂しさというか、尊さというか、「記憶」を残す事にためらいがあります。
住む場所だったり、いつも通う場所、いつも一緒にいる人。そんな当たり前すら作る事が怖くて寂しいのです。
わかりやすい話をするのであれば「卒業式」かもしれません。
仲のいい友人もいればほぼ関わらない友人もいます。仲のいい友人が私のほぼ関わらない友人と関わりがあったりします。そんな組織がその日を持って解散する。仲のいい友人は当たり前に今後も繋がりを持つでしょう。同窓会があればある程度の人は集まるかもしれない。ただ「この時この場所で全員が集まる事は二度とない」そう思ってしまい悲しくなる。そんな感情が日常に人、物、場所に起こるのが今の私です。
若い頃、旅行に行った時に何気なく日本から持っていったゴミをゴミ箱に捨てたんですが、その時に寂しくなるんですよ。
「俺の元に縁あって来てくれたのにこんな遠くに捨ててごめん」って。
感情の度合いはもちろん極小ですが、そういう気持ちになる事も過去にはありました。もう10年くらい前の事ですが、そんな事すら覚えている。
最近自分の記憶力の良さに悩む事が多くてそれが寂しくなるんです。
日付はもちろん覚えてないけど、映像というかエピソードというか場面の記憶が寂しさを作り出します。過去の写真を見たりするとより鮮明に思い出してしまって戻れない過去に囚われ始めるのです。
物を買う=いつか処分する
誰かと思い出を作る=いつか関係が終わる
住居=いつか離れる
そういうものだけど、当たり前だけど些細な事すら寂しく感じるのです。
こういう人間だからか遺構系は結構好きで、姿形を変えても残っている事を嬉しく思ってしまいます。当時の状態に近いならなおよし。そんなものが好きです。
不謹慎に思わないでほしいのですが福島第一原発事故や東日本大震災の復興に携わる仕事ができたらいいななんて思います。
いつまで続くかわからない廃炉作業は私たち人類、日本国民が残した責任です。ただコントロールされていれば安全で、もっと重要で取り返しのつかない事は地球温暖化です。原発については温暖化を食い止めながら現状生活を維持するなら必要だと思うから動かす他無いのかなと思います。
環境を本気で考えるなら生活、経済を犠牲にして電気を極力電気を使わない選択をしないといけないとも思うのです。
作った以上廃炉にしても使うにしても関わり続けなければいけないのが原発です。正常運転しているものだって廃炉となれば一年や二年で更地にできるようなものではない。少なくとも私が死ぬまではなくならない。
どんな形でもいいから死ぬまでに一回は関わりを持ち、力になりたいと思います。
書き始めてから終わるまでに色々考えるとその間に自己解決していつも最後には本題とズレるからまとまらなくなるのですが、過去に囚われている話と囚われない生活を考えた話で、寂しくない方法は関わり続けられるもの、変わらないものに依存というか、寄生したらいいのかなって考えて、絶対変わらなくて歴史やエピソードがあり、かつ寂しげで人が寄り付かないものといえば原子力発電所だなと。故郷を追われて戻りたいのに戻れない。風評被害により故郷を悪く言われる悲しみに寄り添える。そんな事を考えていると自分が役に立つかは別として関わりを持ちたいという使命感に駆られるのです。
新しい環境に飛び込む勇気は自分の故郷愛もあるからまだ無いけど、定年後でもいいだろうし、今の状況でも携われる事があるかも。
私にとって所有する事と思い出を残す事すなわち「人、物と関わる事」は未来に苦痛が待ち受けているという事になります。離れる事になるから。そうすると何もしないという選択になる。ただそうはいかない。
日々移り変わるものは寂しく「記憶」になってしまう。何か一つでも絶対変わらないものと関わりを持ちたいのだろう。
よくよく考えてみれば本当くだらない事だし、絶対変わらないものなんて日常にはなくてみんなその中で生活してるんだよな?って思う。
自分はそれに囚われている。考えない事なんてできなくて。いつも思考は動いてしまっているのだろう。
だから何かすがるものを作りたいのかな?なんて思う。
記憶じゃなく記録していけるそんな存在を作りたいです。