ここではないどこかへ行きたいと、ずっと考えていた。
実家にいた頃、とにかく実家が嫌で嫌で、閉塞感のあるムラ、そこから都心に通うこと、もう壊れてしまいそうな戸惑いを毎日抱え、どこかへ逃げてしまいたかった。
どこか、というので一番わかりやすいのは東京で、職場も東京なことだし、もう東京だ、東京しかない、と思って東京へ出て気付いた。

わたしは別に東京に来たかったんじゃない。
ただ、どこか別の場所で人生を始めたかったのだと。

実際に東京で暮らし始めて、あぁこれでやっと息苦しくない、新しい人生、新しいわたし、デビュー!と息巻いたのは一瞬で、
次の瞬間には、わたしはなぜかわからないけれど湧き上がってくる違和感を埋めるために、見知らぬ男たちと寝まくるしかない、そんな女になっていた。

当然だけど次第に疲弊し、いつしか人と会うことすら嫌になって部屋にこもるようになり、募っていった苦しさから、あるとき田舎の方へ数日、逃避した。

文字通りの現実逃避だ。
簡単なことだった。数日休みを取るなんてわけない。幸いにしてわたしは仕事、職場には全く不満はないし、給料が安いのは仕方ないにしても、福利厚生についてはそこそこのホワイト企業に勤めている。
特に面倒な申し入れもせずに、ポンっと休むのは簡単なことで、独り身のわたしがどこに行こうと誰にも知ったことではなかったのである。

昔も訪れたことのある、山あいの、観光客が少ない、だけど抜群に水が綺麗で空気の澄んだ街へと、わたしは繰り出した。
特に観光することもないので、宿についたらすぐに浴衣に着替え、持ってきた本を読み、夕食前に温泉につかり、夜は部屋で食事をして、また本を読んで過ごした。
TVも見ずにしばらくそうして暮らしていたら、だんだんと、日頃の苦しみはどうでも良くなっていった。

わたしは何に執着していたんだろう?
住む場所、生き方、仕事、恋愛、渦巻くそれらは全部必要なことで、別に間違ってなどいなくて、追い詰めるほど重大でも非道でもない、なんてことないこと、普通に生きていくためにある程度必要なこと、だけどわたしはそういうものに追い詰められてしまうほど、弱くて、執着心が強くて、足場の脆い人間だったのだと気付いた。
本当は全部、考えない日があっても良かった。
正しいことを毎日反芻して、正しいことのために生きているわたしが苦しいのは当たり前だった。
「なんのために」という整合性を求めないと生き方を肯定できないのは、ありのままの自分に自信がないからなのだ。

けれど、この山あいの田舎町ではそんなことすらどうでもいい。
わたしに自信があろうとなかろうと、この町の人はそもそもわたしのことを知らない。
空気は澄んでいる。水が綺麗だ。食事が美味しい。夜はしんとしている。星が綺麗だ。
それ以外になんにも重要なことなんてない。
生き方を正そうとして追い詰められているわたしの存在は、あってもなくてもどうでもいいものだった。
そのことに救われた。

東京に帰ってきてから、放心したように、残りの休みも人と会わずに過ごした。
ツメの色を塗り替える。読みたかった本を読む。観たかった映画を観る。布団を干す。掃除機をかける。眠る。TVもつけずに。ただそれだけの日々は、わたしの心を洗い流してくれた。

シンプルになった。
もっとシンプルでいいのだ。
2016年は、苦しかった。めまぐるしくて、正しいものがなんなのかわからなかった。あるべき自分に追い詰められた。周りの環境は素晴らしいものでも自分はダメだった。素晴らしいからこそ、かもしれない。
来年は、2017年はもっとシンプルに生きたい。肩の力を抜きたい。
やりたいことをする。やりたくないことをしない。会いたい人に会う。会いたくない人には会わない。
それでいいのだと思う。

皆様、良いお年を。