私が大学を卒業して最初に入社したのは、浜松市にある中堅の企業です。社員は500名以上いましたが、学校の机を製造している会社として、小学校の時から知っていました。

 

入社後は新規営業部門に配属されましたが、これといった仕事もなく、社内をブラブラしてる中で、陸上部出身の先輩と仲良くなり、駅伝に出場しようという話になりました。

 

結果、入社したばかりの私が選手集めをすることになり、社内のいろいろな部署に足を運び、走れそうな人を勧誘しました。何とか必要な人数を確保することができました。

 

その年の12月になりますが、隣の市である浜北市(現在は浜松市浜北区)の駅伝大会に参加しました。結果的には下位でのゴールになりましたので、これで終わりかなと自身は思っていました。

 

 

ところが、走ったメンバーからまた出たいとの話があり、翌年の1月に掛川市の駅伝大会に出場しました。結果はよく覚えていませんが、このことが当時の社長の耳に入り、慰労会を開いてもらうことになりました。

 

以降は公認のクラブ(当初は自身の希望で同好会)として活動することになりました。何年か後にはローカルな大会ですが、駅伝で優勝したりと活動は活発になり、一時期は20歳代を中心に20名近くが参加していました。

 

 

その後は駅伝だけではなく、フルマラソンにもみんなで出場するまでになりました。私が入社した1985年に活動が始まり35年近くが経過していますが、現在もクラブは存在しています。

 

すでにこの会社は退職していますが、昨年のジュビロ磐田メモリアルマラソンでは、久しぶりにかつてのメンバーと会うことができました。一番うれしかったのは、仕事でもかかわりのあった78歳の方がハーフマラソンに参加しており、2時間20分台で完走したことです。

 

自動車部品を主に製造している会社でしたが、自動車メーカーのトヨタ、ホンダ、ダイハツでも社内の駅伝大会が大規模におこなわれていますが、クラブの存続には駅伝の存在が大きかったと思います。

 

 

 

会社の人間が集まって、ただ個人レースに参加するだけでは続かなかったでしょうし、駅伝に参加することによりみんなの気持ちが一つになり、走ることが継続され、結果クラブも存続することができたと思っています。

 

身近な環境の中では、走ることがなかったかもしれない人たちが、タスキをつなぐことにより、ランニングの楽しさを体験してもらうことができたのは、非常に意義のあることだと思っています。