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徳島では、上勝町がいい例かな???



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     The Globe Now: 「明るい農村」はこう作る
                 ~ 長野県川上村の挑戦

         「信州のチベット」が高収入、高出生率を誇る
         「明るい農村」に変貌するまで。
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■1.「信州のチベット」が「明るい農村」に

 山梨県、埼玉県、群馬県との県境にある長野県川上村。西に八ヶ岳連峰が聳え立ち、東、北、南もそれぞれ2千メートル級の山々に囲まれ、かつては陸の孤島、信州のチベットと呼ばれていた。

 村の平均標高は1270メートル、真夏でも平均温度20度前後、冬はマイナス20度近くまで冷え込む寒冷な高地である。そのため稲作や果樹の栽培には適さず、昔は猟や林業で細々と生計を立てていた。

 千曲川の源流もここに発し、島崎藤村は『千曲川のスケッチ』で川上村を「信州の中で最も不便な、白米はただ病人にいただかせるほどの貧しい荒れた山奥の一つ」と記していた。

 その村がいまや平均年収2,500万円もの豊かな農村に生まれ変わっている。

 年収ばかりではない。多くの農村が過疎と高齢化に悩まされている中で、川上村の出生率(一人の女性が一生に生む子どもの人数)は1.83と、全国平均の1.34どころか、県別トップ沖縄県の1.75すら上回っている。

 川上村では、農業を継ぐ若者も多く、農業従事者のうち、30代、40代が約37パーセントと、全国平均の9.4パーセントを大きく上回っている。また7割の嫁が東京などの都会から嫁いできて、3、4人の子どもを生み育てている例も多い。

 日本全国の農山村が川上村のように活気ある「明るい農村」に生まれ変わったら、我が国もどんなにか住みやすくなるだろう。今回は、川上村の変革がどのようになされたのか、追ってみよう。


■2.期待、安心、そして夢を運ぶ村営バス

 川上村の変革をリードしたのが、村長・藤原忠彦さんである。藤原さんは昭和13(1938)年、川上村の農家の次男として生まれた。父親が若くして亡くなり、長男は東京の大学に進学したばかりだったので、藤原さんが高校を中退して農業を継ぐ事になった。

「家の犠牲になった」という意識もあって、東京に出ては遊び回っていた時期もあったが、昭和36(1961)年に転機が訪れた。農林省による寒冷地対策事業の一環として、大型トラクターが導入され、その運転手として村役場の臨時職員に採用されたのである。機械好きで、村では珍しく大型特殊免許を持っていたのが、幸いした。

 藤原さんはトラクターを運転するのが楽しくて、村中の畑を耕した。その姿を見て、当時の村長が正規職員にしてくれた。

 昭和57(1982)年、藤原さんは44歳で企画課長に昇進した。この頃、村では人口減少と過疎化が進んでおり、唯一の民営路線バスも赤字続きで、廃止が決まっていた。「路線バスが廃止されれば、村の安心感がなくなり、過疎に拍車がかかる、なんとか存続させたい」と藤原さんは考えた。

 そこで路線バスを村営化し、さらにスクールバスや幼稚園送迎バスと併用することで黒字化する、という案を作った。しかし路線バスは運輸省管轄、スクールバスは文部省管轄と監督省庁が異なり、前例もないので、なかなか認可が下りなかった。

 藤原さんは関係部局に夜討ち朝駆けの説得を行い、やがてその意気に感じた役人が、遂に認可をしてくれた。この方式で村営バスは黒字化に成功し、以後、全国的にも「川上方式」として有名になった。

 藤原さんが幼稚園の卒園式に招待された時、一人の子どもが「ぼくは大きくなったら村営バスの運転手になる」と言った。これを聞いて、藤原さんは、「バスは単に人を運ぶだけではなく、人々の期待や安心、そして夢をも運ぶものなのだ」と実感した。


■3.ケーブルテレビで農村の情報化

 企画課長として、次に取り組んだのが、農業の情報化だった。川上村は、食生活の欧風化の波に乗って、レタスの出荷を行っていたが、東京市場では新興産地のレタスに価格面で後れをとりつつあり、何らかの対策が必要だった。

 その柱が情報化だった。正確な気象情報があれば、的確な農作業が可能になり、また市況情報により価格が高いときにタイムリーに出荷できる。

 川上村は地上波テレビの難視聴地域でもあったので、まずケーブルテレビ(CATV)の導入を図り、これを利用して農家向けに情報を流せないか、と藤原さんは考えた。

 これには数億円の予算が必要になるが、藤原さんは農水省に補助金を出して貰えないか、と掛け合った。答えは「ノー」。有線テレビはダメだという姿勢だった。しかし、村営バスを実現した経験から、藤原さんはまたも夜討ち朝駆けをくり返し、その熱意にほだされた役人が「どうにか挑戦させてあげたい」と、とうとう法律改正までして補助金を出してくれた。

 昭和62(1987)年、村の全世帯にケーブルが敷かれ、テレビ放送が流されるとともに、翌年から村独自の情報提供を始めた。気象情報としては、村内3カ所に設置した気象観測ロボットからデータを集め、地区ごとに最高最低気温や降水量を提供している。市況情報としては、毎日、過去数日のレタスの出荷量、単価が一目で分かるようにした。農業経営として必須の情報が得られるので、視聴率は100%となっている。

 川上村の607戸の農家の高原野菜の平均販売額は25百万円(平成19年)。農業では高収入を得られないという日本の常識を完全に覆している。


■4.海外との交流

 CATVの放送が始まる直前、藤原さんが予想もしなかった事が起きた。親交のあった若手の農業後継者グループが、村長選に藤原さんを推薦したいと言い出したのである。彼らが村民の過半数を超す支持署名を差し出した時、これはもう逃げるわけにはいかない、と立候補を決意した。

 昭和63(1988)年2月、藤原さんは無投票で村長となった。「これも宿命かもしれない」と、川上村の発展に向けて新たな闘志が湧いてきた。

 藤原さんは、村長として精力的な村作りを進めた。その中には、高齢者対策として大浴場、診療室などを備えた「ヘルシーパークかわかみ」の設立もあるが、特徴的なのは若手村民を対象にした人材育成事業だろう。

 その一つに海外との積極的な人材交流がある。カリフォルニア州で農業の盛んなワトソンビル市と姉妹都市提携を結び、冬の農閑期を利用して、交流を行っている。こうした機会を通じて、村民の多くが海外研修やホームステイなどの海外体験をしている。

 グローバルな感覚を持った村民が増えて、レタスの海外市場も開拓されつつある。台湾ではアメリカ産のレタスよりも「品質が良い」と売れ行きは好調で、さらに香港、上海、シンガポールへの進出も計画されている。


■5.独自の村づくりを目指して

 藤原さんが村長に就任する前年の昭和62(1987)年、総合保養地整備法、いわゆるリゾート法が成立し、地域振興策として各自治体がこぞって、ゴルフ場やテニスコート、スキー場、はては大型宿泊施設を備えたリゾート開発に乗り出した。

 藤原さんは、ブームに乗ってゴルフ場やテニスコートを作っても農村文化の発信にもなっていなければ、地に足のついた観光振興にもつながらないと思った。

 そこで、長野県がリゾート法の計画を策定した際、川上村も重点整備地区に指定されていたのを、あえて返上した。全国どこにでもあるようなリゾート施設で地域振興を目指すのではなく、従来からの農村の文化を大切にし、人間性豊かな生活を享受できる村にしようと考えたのである。

 リゾート法の次に国がとった政策が、「ふるさと創生事業」だった。昭和63(1988)年から翌年にかけて全国の市町村に1億円が交付され、それを自由に使って各自治体が自ら創意工夫をして地域づくりを進めよ、という趣旨だった。

「何をしたら村づくりに役立つか」「村独自のものができるか」と考えて、藤原村長が始めたのが「川上村ふる里村塾」だった。


■6.人材育成をためらっていては将来に禍根を残す

「川上村ふる里村塾」は、村民が運営し、コンサートや演劇鑑賞、文化講演会など本物の芸術文化に触れる機会を設けることで、心の豊かさを築く文化活動を目指した。

 こうした活動には、そのための施設が必要で、「川上村文化センター」の建設を計画した。最大500名まで収容可能な多目的ホール、150インチの大画面を備えたハイビジョンシアター、村の自然や歴史を展示する資料館、24時間オープンの図書館と、充実した施設を目指したので、その予算額も20数億円になった。

 この金額は、当時の村の予算総額の半分に相当したので、反対の声が強かった。

「そんなものにカネを使うのなら、レタスの保冷倉庫を建てたほうが村のためになる」という声には、藤原村長は「農業への投資は後回しにしても取り返せるが、いま、川上村の人材育成をためらっていては将来に禍根を残す」と答えた。まさに前号で紹介した「米百俵の精神」である[a]。

 また「夜間無人の24時間オープンの図書館では、何十冊もの本が盗まれてしまう」という反対には、「1日に何十冊、いや何百冊盗まれてもかまわない。むしろ、盗んでまで本を読みたいという気持ちが生まれるなら歓迎したい」と、持ち前の熱意で説得につとめた。

 こうして建設された「川上村文化センター」で開催される「ふる里村塾」は、今では100回以上を数える。村民主体の運営が評価され、平成5(1993)年には「長野県地域づくり大賞」を受賞した。

 24時間オープンの図書館は約6万冊の書籍のほか、CD、ビデオ、DVDなども備え、幼稚園以上の全村民がIDカードでいつでも借りることができる。利用率は長野県でも上位にランクされており、村民の生活にしっかり根付いている。


■7.「おじいちゃんが植え、お父さんが育てた木を子どもが使う」
 川上村はカラマツなど天然木の宝庫でもある。カラマツは生長が早く、炭坑の坑木や電柱用材として、近代日本の工業化に重要な役割を果たした。

 しかし、高度成長後は安価な輸入木材に押され、「このままでは村の林業、ひいては脈々と受け継がれてきた森林文化が廃れてしまう」と藤原さんは強い危機感を抱いた。

 そこで「川上村林業総合センター」を平成9(1997)年8月に設立した。カラマツ材をふんだんに使った木造2階建ての建物は、森林と林業について学ぶスペースと、森林組合の事務所からなっている。

 林業の復活には需要開発が不可欠だ。カラマツは建築材料としては、スギやヒノキに比べて「そり」や「まがり」が出る、乾燥させるとヤニが出る、といった欠点があった。川上村ではこれらの欠点を補う品種改良や乾燥技術開発を進め、外壁やサッシ、化粧合板、フローリング材を供給するようにした。

 こうした努力が実を結び、都会からやってきて川上村で林業に従事する若者が増えてきている。

 平成20(2008)年7月、村の中学校の校舎がカラマツ材で新築された。その建設では村の子供たちも、大人と一緒に木を伐採した。「おじいちゃんが植え、お父さんが育てた木を子どもが使う」という形が実現したのである。


■8.地方が活力を取り戻すために

 こうして川上村は農業を継ぐ若者も多く、また都会からも嫁を迎えて、子どもたちで賑わう「明るい農村」になった。情報化に支えられたレタス生産による豊かさ、「ふる里村塾」や24時間オープンの図書館による文化的な生活、さらに、自分たちの村に対する誇りと愛着が、若者を川上村に引きつけているのだろう。

 藤原村長は、著書をこう結んでいる。[1,p157]

__________
 地方が再び活力を取り戻し、住民の生活が豊かになれば内需拡大につながり、同時に少子化にも歯止めがかかります。

 というのも、都市よりも地方のほうが子育てをするには、自然豊かで地域のコミュニティもしっかりしており、また住宅も広いというように恵まれた環境にあるからです。実際に私の村では、出生率が高水準を維持しています。

 都市のエネルギーと地方の、とりわけ農山村が有している豊かな自然、これが融合したときに、日本は本当に暮らしやすい社会へと変貌していくものと私は確信しています。

 だからこそ、そんな理想の地域づくりを実現するために、今日も走り続けているのです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(632) 小林虎三郎 ~ 人作りは国作り
 賊軍として破れ、どん底に陥った長岡藩で「食えないから学校を立てる」と説いた男がいた。

b. JOG(527) 夢と誇りを持てる農業を
 伝統的な「土づくり」と近代的な経営とで、農業は大きな夢を持てる職業となる。

c. JOG(604) 農業大国ニッポンへの道
 日本は美味しく安価なコメの輸出大国になれる。

d. JOG(582) 愛国心で経済再生
 消費者と企業が、その消費と生産にささやかな愛国心を込めれば、日本経済は再生する。


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 藤原忠彦『平均年収2500万円の農村―いかに寒村が豊かに生まれ変わったか―』★★★、ソリック、H21

■前号「『明るい農村』はこう作る ~ 長野県川上村の挑戦」に寄せられたおたより

■郷志さんより

 山梨県から信州峠を越えて川上村に抜ける道が好きで、通るたび、なんて美しい風景だろう、美しい畑、手の行き届いた里山、千曲川の美しい流れ、小川山の奇岩が花を添え、なんとも心癒されるすばらしい場所になるには、このような努力があったのですね。

 日本の再生には、第一次産業こそがその基盤となると勝手に信じている小生には、持論が検証された気になったり、好きな川上村が取り上げられてと、キーをたたかずにはいられませんでした。

■編集長・伊勢雅臣より

 美しい心が美しい景色を作り、美しい景色がまた美しい心を育てます。


■T.Yさんより

 日本人を育てると言うことは、一人一人を、自ら考える人に育てると言うことだと、拝読させていただきながら、思いました。

 農耕民族である私たちは、隣の真似をしてさえいたらとか、お上が言うからとか、それが「隣百姓」という言葉なのでしょうが、本当の農民は、自ら工夫を重ね、その結果を皆さんにと差し出す思想のようだと、常々思ってきました。それが、「篤農家」の意味だと思っています。

■編集長・伊勢雅臣より

「篤農家」とは素晴らしい言葉ですね。若い篤農家がたくさん現れれば、日本の農業も安心なのですが。


■シチューさんより

 読み終わると元気が湧いてくる話が多くて毎回楽しみにしておりますが、今回の農村再生の話は特に素晴らしかった。

 都会の生まれ育ちである自分が言うのも変ですが、地方の古き良き日本の伝統や原風景が失われつつあることにいつも心を痛めています。何も出来る事はありませんが、素晴らしい所であれば訪れ、名産品の一つでも購入したくもなります。全国どこでも都市化を目指し利便性を追求したおかげで、日本中個性の無い地域だらけのような気がします。

 先週末、小田原に行った際に土産物屋を覗くと「小田原名産アジの干物」の値段に大きな隔たりがありました。よくみると片や小田原沖・地元産なのに対して、激安の方は「韓国産・小田原加工」といった紛い物でした。どこのスーパーでも買えるそんなものを「小田原加工」と銘打って土産物店で売る浅ましさに大いに幻滅しました(他に中国産の梅干もありました!)。観光客の足を遠のかせる原因を自ら作っているのに気が付いていません。私は、少々値は張りましたが、地元産・地元加工・非冷凍の特大アジを買って帰り、家で堪能したのは言うまでもありません。

■編集長・伊勢雅臣より

 頑張っている地元の名産を消費者としても応援しましょう。

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