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「クロネコヤマトの宅急便」が生まれたのは逆転の発想だった
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12月20日(日) 16:45提供:J-CAST会社ウォッチ

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「人生! 逆転図鑑 山あり谷ありの32人に学ぶ成功の法則」(早見俊著)秀和システム

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たとえば、ヤマト運輸2代目社長、小倉昌男氏。父親の康臣氏の後を継いで社長に就任したのは1971年。運送業界は当時、戦後の道路整備が進むなか、大型トラックによる長距離運送が事業の中心だった。 ところが大和運輸(当時)は、康臣氏が「箱根より西に出るな」と釘を刺し、このことで競合他社に後れをとっていた。坂やカーブが多い箱根の通行で起きかねない事故多発を回避するための方針だったという。

この康臣氏の経営方針が会社の成長を阻んでおり、小倉氏は苦しい経営を強いられながらの社長就任だった。業績改善策として研究したのが、米国で商業荷物を扱う配送業者UPS(ユナイテッド・パーセル・サービス)の業務。UPSは商業荷物を集荷して宅配を行っていたが、小倉氏が考えたのは、一般家庭から荷物を集荷し、全国の一般家庭に届けるシステムの構築だ。

ヤマト運輸、初日に扱った荷物は11個 

当時は小荷物を送る際には郵便局の窓口に持ち込むことしか手がなかった。運送会社が事業として荷物をピックアップし配送することは、とてもコストに見合うものではないと考えられていた。……
大和運輸は業績を改善できないままの一方、日本はオイルショック(1973年)に見舞われた。その煽りをうけて1975年、大和運輸はそれまでで最大規模の赤字を計上。小倉氏は「郵便局と競争して小荷物配送を行う」と挑戦を決意したそうだ。

長距離の大きな荷物がダメなら、近くで集荷できる小荷物を――。
どの会社もやっていない集荷事業の先駆者に――。

こうした逆転の発想をもとに、会社再建のため小倉氏は断固たる決意で「宅急便開発要綱」を作成し1976年1月から営業を開始した。

実施のために小倉氏は、まず取次店を開拓。当初は手数料を払って酒屋に委託した。そして料金設定をわかりやすくするため細分化せず、運送先をブロック化してブロック内は同一料金にした。

営業開始初日に扱った荷物は、わずか11個。

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宅配便成功で弾みがつき、小倉社長はまたまた大きな決断をする。創業以来の重要顧客であった三越百貨店と1979年に配送契約を解除したのだ。配送費の大幅引き下げ、三越が出資した映画のチケットの大量購入を押し付けられたことに反発してのことだった。

両社のシンボルに引っ掛け、ネコがライオンにかみついたと、ここでも「逆転」が評判になったという。

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「宅急便」って、「クリネックス」や「バンドエイド」と同じように、諸品名そのものが一般的に使われるほど今やメジャーですからね。

 

それが、当初は苦肉の策であったということが興味深いです。

 

まさしく「逆転の発想」です。

 

何かに行き詰まった時のために、心に覚えておきましょう。

 

諦めるのは、いろいろ工夫をこらし、ベストを尽くしたその後で。

 

 

 

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