人生逆境だらけ! それでも心は負けなかった細川(ガラシャ)さんの場合 | いきいきるんるん♪ 微笑み返し

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人生逆境だらけ! それでも心は負けなかった細川(ガラシャ)さんの場合 ≪続きを読む≫

1月10日(金) 21:00 提供:レタスクラブ

 

■ 「あの悲劇の女性」の生涯とは

数多くの武将が登場し、一般的にも気の高い戦国時代。この時代、悲劇的な最期を遂げたキリシタン女性として有名なのが細川ガラシャです。
……
細川ガラシャは、織田信長の重臣・明智光秀の娘として生まれました。ガラシャは洗礼名(キリスト教徒としての名前)で、本名は「玉子」といいます。

1578年、玉子は信長の家臣である細川藤孝の長男・忠興と結婚しました。…… この時、二人はともに数えで15歳でした。
……
玉子の父・光秀は、多くの手柄を立てて信長の天下取りを助け、家臣団トップに出世。夫の忠興は文武両道で、信長からも期待される若者――玉子の将来は順調に見えました。

ところが、その運命が暗転する事件が起きます。

■ 逆境その1 謀反人の娘になる

1582年、父の光秀が突然信長を裏切り、自害させてしまったのです(本能寺の変)。……
光秀の娘である玉子の立場も危うくなりました。忠興は、「光秀とはかかわりがない」ことを示すため、玉子を離縁した上、人里離れた味土野(みどの)という山奥に幽閉してしまいます。

しかし、これは玉子の命を守るための策でもありました。幽閉中にも子どもが生まれており、忠興の愛情が変わらなかったことを示しています。

■ 逆境(?)その2 夫の愛が重すぎる

信長の死後、忠興は豊臣秀吉の重臣として仕えることになります。本能寺の変から2年後、秀吉は忠興と玉子の再婚を許しました。こうして、玉子は大坂の玉造にある細川家の屋敷に住めるようになります。

しかし、忠興は妻への愛情が深すぎたのか、厳しい監視をつけて外出も許さず、限られた人としか会話をさせませんでした。亡くなるまでの16年間、軟禁に近い状態が続いたのです。
……
味土野時代から続く孤独の中で、玉子は信仰に救いを求めるようになります。キリスト教の噂を聞いて興味を持った玉子は、忠興の遠征中に一度だけ屋敷を抜け出し、こっそり教会を訪れます。

玉子に接した宣教師は、彼女が賢く鋭い質問をすることに驚いたといいます。その後も、侍女たちを通じて教えを学び、とうとう洗礼を受ける決心をしました。

玉子には外出の自由がなかったため、「侍女が宣教師から洗礼の方法を教わる→侍女が屋敷の中で玉子に洗礼を行う」という手のこんだやり方を使い、彼女はキリシタンになりました。
……
記録によれば、キリスト教の教えを知ってから「怒りやすかったのが忍耐強く、気位が高かったのが謙虚になった」といいます。信仰は、ガラシャに心の強さを与えたのです。

■ 逆境その3 キリスト教禁止令が出る

ガラシャが受洗したのと同じ1587年、豊臣秀吉はある命令を出します。バテレン追放令、つまりキリスト教の禁止令でした。キリスト教を信仰する大名の中には、追放刑を受けた者もいました。

遠征から戻った忠興は、ガラシャがキリシタンになったことを知って激怒します。しかし、夫から信仰を捨てるよう強要されても、ガラシャは屈することはありませんでした。忠興も根負けし、ガラシャは密かに信仰を持ち続けることになります。

■ 逆境その4 一族があやうく罪人になりかける

1595年、豊臣秀吉の甥で後継者候補だった秀次が、謀反の疑いを受ける事件が発生しました。秀次は切腹を命じられ、妻子や重臣などもことごとく処刑されました。

忠興とガラシャの長女・長(ちょう)は、この時切腹を命じられた秀次重臣に嫁いでいました。そのため、細川家も巻き添えで謀反の疑いを受けてしまいます。

長にも処刑の危険が迫りましたが、夫と離縁して謹慎することで命は助かりました。……

■ 逆境その5 人質になるよう強要される

1598年に豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康と石田三成が対立。大名たちは東軍と西軍に分かれ、関ヶ原の戦いが起きます。忠興は東軍につき、家康に従って出陣します。ガラシャは大阪にある細川家の屋敷で留守を預かっていました。

その矢先に挙兵した西軍の石田三成は、「東軍の武将の妻子を人質にとって、東軍を動揺させる」という作戦を立てました。その標的には、大阪の屋敷にいた細川ガラシャもいました。

三成は、まず細川家屋敷に使いを送り、交渉でガラシャたちを大阪城に移動させようとしました。しかし、ガラシャは断固としてこれを拒否。とうとう三成は、軍勢を差し向けて屋敷を包囲します。

ガラシャはすでに覚悟を決めていました。侍女たちを外に逃がすと、家臣に命じて自らを長刀で突き殺させたのです。自刃しなかったのは、キリスト教が自殺を禁じていたためでした。

ガラシャの壮絶な死によって、石田三成は人質作戦を中断せざるを得なくなります。もしガラシャがおとなしく人質になっていたら、他の東軍武将の家族にも波及し、東軍の武将は動揺したでしょう。

妻の死を聞いて、忠興は悲しむとともに三成を激しくうらみます。彼は関ヶ原の戦いで奮戦し、東軍が勝利を収めました。ガラシャの死は関ヶ原の戦いの勝敗に、つまり日本史の大きな流れに影響したのです。
……

38年の短い生涯に何度も逆境が降りかかりましたが、ガラシャは決して負けることはなかったのです。

ガラシャの死後、忠興は嫌っていたはずのキリスト教の神父に依頼し、教会で妻の葬儀を挙げさせたといいます。彼はその後正室を持つことなく、1645年に83歳で生涯を終えました。

文/三城俊一(みきしゅんいち)
……

 

 

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細川ガラシャ夫人のことは、書籍やミュージカルにもなっていますよね。

 

だからこそ、僅か38年の人生ながら、こうして人の心に生き続けます。

 

この記事のタイトル通り、「人生逆境だらけ! それでも心は負けなかった」のは、本当に素晴らしいと思います。

 

悲劇的な結末は迎えたくないけれど、彼女のように自分の信念に基づき、自ら選択した人生を全うしたいものです。

 

 

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