『ラッセル幸福論』から | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 先日、デンマークのロスキルという街で開催されたRussel tribunal 50周年のシンポジウムに参加してきました。

 アメリカのベトナム戦争政策=帝国主義戦争・反共戦争をやめさせるために「民衆法廷」という仕組みを企画し、民衆側が国家を裁く、という革命的・民主的な試みを50年前に呼びかけたバートランド・ラッセルという哲学者・数学者。

 そのバートランド・ラッセルの『幸福論』は、1970年に亡くなったラッセルが書いたものと考えれば、それなりに古いわけですが、「新自由主義」的な世界観が蔓延している現在にも、示唆を与えてくれるものだと思います。

 

 「実は、罪の意識は、よい人生の源泉になるどころか、まったくその逆である。罪の意識は、人を不幸にし、劣等感をいだかせる。自分が不幸なので、他人に過大な要求をしがちであり、ために、人間関係において幸福をエンジョイすることができなくなる。劣等感があるので、自分よりもすぐれていると思われる人たちに対して恨みを持つようになる。

 彼は称賛はむずかしく、ねたみはやさしいのを発見するだろう。彼は、総じて感じの悪い人間になり、ますます孤独になっていく。他人に対して心の広い、おおらかな態度をとれば、他人も幸福にするだけではなく、本人にとっても限りない幸福の源となる。そうすれば誰からも好かれるようになるからである。しかし、そういう態度は罪の意識につきまとわれている人にはまず不可能である。」

 

 ここでの「罪の意識」をたとえば、イマドキの「自己責任」と考えれば、思い当たる節は、みなさんにもあるのではないでしょうか。ついつい、「悪いのは自分」「足りないのは自分の力」と自分を責めるように私たちは追い込まれがち。しかし、それは、資本の幸福につながることは、あっても私たちの幸福には繋がらない、ということをラッセルは指摘しているのだと思います。

 

 また、現在社会の一つの特徴と思われる(というか資本により形成されている)刹那主義的な事柄(カジノ、儲け主義等)についても、

「情熱的な愛、親の愛情、友情、慈悲心、科学や芸術に対する献身などの中には、理性が減らしたいと思うものは何ひとつない。理性的な人間は、これらの情念のどれか一つまたは全部を感じるとき、そのことを喜びとし、そうした情念の強さを減らすようなことは何もしないだろう」

と、指摘した上で、単に「陶酔」だけとなるような「情熱」については、

「どんな陶酔であれ、陶酔を必要とするような幸福は、いんちきで不満足なものだ。本当に満足できる幸福は、それに伴って、私たちの諸能力が最大限に行使され、私たちの生きている世界を最大限に理解させてくれるものである。」

と指摘しています。

 

 「私たちの名目だけの道徳は、僧侶たちと精神的に奴隷化された女性たちによって定式化されたものである。世界の正常な生活において正常な役割を果たすべき人たちは、いまこそ、この病的なナンセンスに対して反逆することを学んでよいころだ」

 

 大杉栄同様、恋多きアナキスト的な側面もラッセル。メッセージは、今も通用する「過激」さを持っていると思います。