恋する革命 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 ディストピア小説であるジョージオーウェルの『1984年』でも、主人公は、弾圧として恋愛を裏切りを拷問により強制されます。『ロスト・エモーション』(2015年)という映画でも、管理社会で恋愛はもちろん、勝手な妊娠も禁止されている世界が描かれています。

 

 恋愛というのは、そういう意味では自由の象徴であり、治安を維持し、管理を徹底したい支配側にとっては、弾圧の対象ということでしょう。

 

 え、恋愛なんて自由じゃない?弾圧なんて昔の話、架空の話でしょ?って?

 

 そうでしょうか? 恋愛は、そんなに自由かな? 社会的に、法的に、いろいろ制約はないですか。「二股はいけない」、「不倫は損害賠償」、「姦通は未だ犯罪」(の国もある)、「それはセクハラ」など、今でもなんだかんだと、ご法度。

 まあ、それだけ、恋愛というのは、「自由」であり、管理に抵抗する本質的な力を持っているということでしょう。だって、「愛」だもの・・・。

 

 スラヴォイ・ジジェクの『事件!』では、「実際、われわれは真剣に恋をしているとき、まさに何かに取り憑かれているのではあるまいか。愛とはいわば例外的状態が永遠に続くことではあるまいか。日常生活の適切な均衡が乱れ、すべての好意が心の奥にある「あのこと」に彩られる。」とか「こうした状況は善悪を超えている。恋をしているとき、われわれは親や子や友達に関する道義的義務に対して妙に無関心になる。・・・情熱的な恋と比べると、すべてが色あせて見える。」とか「たとえば、恋に落ちたとき、過去が変わってしまう。あたかもすでに・つねに彼女を愛していたかのように思われ、会う前から恋が運命づけられていたかのように思われる。現在の恋が、それを生んだ過去の原因になっているわけだ。」と恋愛の「例外的状態」と革命の対置で描かれていますが(以前も引用しましたが)、それほどまでに、恋愛の呼び起こす、管理に応じない人間の「例外的状態」を支配者は恐れているのでしょうね。

 

 日本では、アナーキストの革命家大杉栄の神近市子と伊藤野枝をめぐる自由恋愛(フリーラブ)と、その「日蔭茶屋事件」=短刀で刺されてクライマックスを迎える話が有名ですが、革命も恋愛もある種のアナーキーな、その意味で例外的な、瞬発力が発揮される、その意味で極めて人間的な行いであり、だからこそ、みんな「恋愛」に恋をし、「革命」に惹きつけられるんでしょう。

 まあ、誰かに対する強烈な愛・・・これが動機でありエネルギーであり、力の源泉だというのは、21世紀も同じ・・・はず?