エリートは「ポピュリズム」がお好き? | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 昨年、起こった世界的な動き・・・イギリスのEU離脱、韓国のゼネスト、そしてアメリカのトランプ大統領の選出などをポピュリズムと評する評論が見受けられます。

 

 ポピュリズムとは、「一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想、または政治姿勢のこと」(wikipedia)で、大衆迎合主義とも言われるとのこと。

 

 この「既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決」するのであれば、まさに、2016年の私たちの意思、世界の大衆が、その方向に向かったのだと思います。

 

 いいことではないの?しかし、このポピュリズムという言葉が使われる文脈は、どこか否定的なニュアンスを込めているように思われます。衆愚的な動き、つまり愚かな大衆の間違った選択が誘導された、みたいな。

 

 ポピュリズムって、むしろ、民主主義そのものなのではないの?という問いに対して、「民主主義では、民衆の意見を取りまとめて統治につなげていく段階で、『エリート』が必要になっていく。」(遠藤乾・北海道大学教授)との答えをされています。本当?そうなの?

 

 どこかしら、ポピュリズムという言葉を使う人の「立ち位置」が、エリート側、つまりは、大衆の中にはないのでは、と思います。

 

 昨年の世界で起きた、エリート層、マスメディアにとって「意外」で「予想外」の自体は、「支配のための民主主義」である現在の代議制(エリート制)民主主義を突き破って、民衆の不満を突き上げる形で表したものだと思います。

 

 もちろん、EU離脱はナショナリズムの匂いもするし、金持ちトランプと99%の大衆層の利害が一致などするわけはありません。

 

 しかし、1%のエリート=大資本だけが儲かるグローバリズムにノーを突きつけるため、ヒラリークリントンに代表される既存のエリート=資本の支配にノーを突きつけるためには、そうするしかなかったということでしょう。そのシステムでは、その選択肢しかなかった、ということでしょう。

 

 その意味で、ポピュリズムという言葉自体、エリート側の言葉だと思います。大衆の中に自分がいる、と自覚する人が使うことはないでしょう。それを選ばざるを得なかった人々に寄り添って考えれば、「大衆迎合」などと侮蔑的かつ俯瞰した評論家的な言葉は出てこないはずです。

 

 アメリカの民衆は、次は反トランプ運動に大きく結集しようとしています。クリントンを吹っ飛ばし、トランプを打倒する、というのは民衆の自然な心情でしょう。

 

 ナチス政権化のドイツは、ポピュリズムの例としてよくあげられますし、また、全体主義としてハンナアーレントが評価するのは、加えてロシア革命後、スターリン主義下のボルシュビズムです。その意味で、どこかとんでもないところに誘導される危険は、今の時代にはあります。

 

 しかし、私たちに必要なのは、エリートではありません。私たち自身です。EUを離脱してどうするか?ナショナリズム・保護主義に走るのか、クリントン・トランプを吹き飛ばした後はどうするのか、パククネを打倒したのちは、どうするのか。これが、私たち自身に問われています。

 

 ポピュリズムなんて言葉に絡め取られずに、常に私たちの選択、その時々の私たちの大衆としての選択を主体的に・意識的にしていきましょう。安倍打倒後、この社会を仕切るのは私たち自身だということです。