危険の感覚は失せてはならない。
道はたしかに短い、また険しい。
ここから見るとだらだら坂みたいだが。
というオーデンの詩が最後に引用されている『日常生活の冒険』(大江健三郎)は、これまでもブログで何度か引用するほど、私にとっては「青春のバイブル」的に影響を受けた本です。この詩の一節は主人公たる友人からの手紙の一部として出てきます。
ところで、たまたま最近出た本を読んでいたら、この「危険の感覚を失せてはならない」という詩がやはり引用されていました「・・・対権力、対民青、対革マルとの運動の現場は暴力的だったから、その頃は道を歩くのにも警戒して、四六時中身体的にひりひりするような気分だった。とはいえ僕は、自衛のため機動隊と民青と革マルは殴ったけど、それ以外の人は殴ったことのない平和主義者です。・・・運動の世界に惹かれたのは、そこに立ち込めていた危険の感覚のせいでもある。」(『創造元年1968』笠井潔・押井守)などという対談本なのですが、要は、危険の感覚の「身体性」は重要、みたいな文脈です。
・・・たしかに、大事な場面というのは身体性、というか暴力との背中合わせ、みたいなことはあるでしょう。裁判所、というのは国家機関として暴力発動のお墨付きを与える装置であり、ある意味、常に暴力的に構えている空間ですし、今や大学のような場所も管理=空間支配の場であり「異物」に対しては極めて暴力的な場所だと思います。
「世間」や「常識」みたいなものから許されている範囲の「自由」を謳歌する分には、あんまり関係ないけど、「おや、待てよ?なんかコレおかしいんじゃないか」と思い、本当の意味で「自由」なことを発言し、表現するような場合には、この「危険の感覚」は必要だとは思います。要するに油断できない、ということ、です。
案外難しいですけどね、この「危険の感覚」を失わず、「油断」しないでいることは。それ自体、訓練を要する、というか、職人的に日々、研ぎ澄ましていないとすぐ磨耗しがち、というか(緊張しっぱなし、というのもきついしねえ・・・)。
緊張感溢れるピアノコンクールを舞台とした小説『蜜蜂と遠雷』(恩田陸)には「練習を1日休むと本人に分かり、二日休むと批評家に分かり、三日休むと客に分かる」なんて言葉も出てきますが、楽器やスポーツだけでなく、なんらかのテクニックとセンスを要する「職能」を持ち続けるのは、日々の努力なんでしょうね。その上で、ある瞬間に力を発揮する、時が待っているかもしれない、というような・・・。
ところで、先のオーデンの詩は
見たいならみるがいい、でも君は飛ばなくてはならない。
と続く、『見る前に跳べ』という詩の一節のようです。
見る前に跳べ、か・・・。危険の感覚を失わずに、けど、見る前に跳べ、と考えると、ちょっと矛盾する気もしますが(!)、この妙に、現実が戦争前夜的な切迫感のある事実で積み上げられながら、どこかその現実から目をそらそう、逸らさせようという空気感で覆われているような今、自分の中から「危険の感覚は失せてはならない」し、いざという瞬間に足がすくむようなことがあってはならない、そういう怖い時代なのでは、と改めて思うのです。