森川金寿として 父として | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 森川金寿の『昭和人権史への証言』を読み直しました。初めて読んだのは、私が高三のとき、1980年。この年に初版です。読んだ・・・とはいえないくらい全くよくわからないけど、ともかく打ちのめされました。なんというか、こりゃ、参ったな、と。ちょっと敵わないな、って感じで・・・。

 わからないなりに、なんだかすごいな、森川金寿は、と思いました。家で母親にしかられているだけじゃないんだな、と・・・っていうか、これはちょっと・・・たまんないなあと。

 で、これが確か、6月頃だったような・・その後7月に、森川金寿は倒れ、私は、それをきっかけに法学部受験を思い立ち・・・

 まあ、その後、いろいろ経過を経て、森川金寿とは家永教科書裁判、横田基地騒音公害訴訟、そして、入れ替わりで横浜事件再審を一緒やったりしたわけで、それなりに、俺もまあまあ頑張ったんじゃない、と思ったりしていたんですが・・・・。

 改めて読み直して、今の自分の年頃、父がやっていたこと、そのエネルギーなどを考えると、まだまだ全然叶わないと思います・・・

 今の年頃、森川金寿は何をしていたかといえば、一つは、ベトナム反戦運動です。

 昭和41年から49年まで9年間にベトナム現地調査2回、国際法廷や国際集会に前後8回、なかには42年や47年のように年に2回もヨーロッパへ出かけたわけであるが、かえりみてよく続いたものだと我ながら苦笑するところがある。金銭的なことにはふれたくないが、多少のカンパはあっても大部分の費用は自費負担であり、その都度四苦八苦して文字通り捻出したわけで(この点妻に感謝しなければならない)、とにかく何回も何回もベトナムやヨーロッパに行ってきた。これは誰に頼まれたわけもなく、まったく一人の人間としての義務感からでたことである。ことに私は「ベトナム戦犯調査日本委員会」の代表という一種の公的な責任もあり、「ラッセル法廷メンバー」としての国際的な責任感があった。(前掲書p188)

 実際、私の幼少期の父の印象は、「外国に行ってる」。苦笑って・・・。それと、家永教科書裁判です。
 なにしろ教科書検定ということの法的な意味もよくわからず、この種のケースは殆ど前例がなかったから、慣例を重視する法律家に慎重論が出るのもむりなかった。戒能通孝教授が、「一たんともかく検定を通した以上、それを理由に争うということはどうか」という疑問を提出した。・・・しかし、私は家永教授の“悲願”のような訴訟への執念がよくわかるような気がした。・・・家永教授のように教科書をあっさり投げ出さず、最低抵抗線を守りながらともかく世の中に出した上で別の形で権力と争う、ということは、よりしんどく、より勇気のいることであろう。私はその悲壮な勇気に同感を禁じ得なかった。(前掲書p140)

 まあ、いろいろエネルギッシュに動いています。ホント、父親じゃなかったら、ただただ感心するだけですけど・・・。
 同時に、似たようなところもあります。森川金寿は、大逆事件の坂本清馬氏の再審弁護団にも加わり、荒畑寒村の尋問までやったようです。

森川「当時の荒畑先生なんかのご経験として、もし天皇を暗殺しようとしたりすれば、非常な弾圧が、より以上の弾圧が加えられて、社会主義運動というものが根こそぎになるようなお考えをお持ちだったでしょうか」
荒畑「そういう天皇の暗殺とテロリズムという考えを持っておりませんからそこまで・・・。もしあれば非常な弾圧が起って、運動が根こそぎになるだろうという考えすらなかったです・・・。直接行動論を取るに至ったものでも、全体の社会主義運動の思想的制約を受けていたということです。その制約というのは何かといえば、マルクス派社会主義のいわゆる唯物論的歴史観です。これは社会の変革というものは決して個人の主観的意図で起るものじゃない。そういうフランス革命時代の主観主義的な古い思想で決して変革されるものじゃない。社会が生産関係と生産力の矛盾によって資本主義社会が崩壊の機を早める、一方では労働者階級の間に新しい社会制度に対する熱望というようなものが起ってきて、そしてその機運が熟した場合に初めて古い社会制度が倒れて新しい社会制度が起るんだという、いわゆる客観主義的な歴史観。これは幸徳秋水が獄中から三弁護士(花井卓三、今村力三郎、磯部四郎)に宛てた陳述書に書いてあったと思いますが、そういうマルクス主義的な唯物論的歴史観にずっと養われてきておりましたから、その伝統というものの制約からは離れられない。従っていかに革命達成論者といえども、一個人の暗殺や、あるいはテロリズムによって社会改革が行われると、それほど幼稚な考えは持っていなかっということを補足しておきたいと思います。」


 その弁護団に加わる際、こう思ったとのこと。

 実をいうと私としては、「政治裁判」である大逆事件裁判を、法律的に考えたことがなく、政治史の一環としてしかみていなかったので、これを50年後の今日になって、「法律的」に「再審」するということの現代的意義については、いささか疑問を抱いていた。(前掲書p155)

って、これ、俺が横浜事件再審に対して抱いていた気持ちそのままじゃん!そのうえで加わっちゃうところも。さらに、
 私の現在の住所は北新宿で、以前の名称は柏木である。幸徳秋水や菅野スガの旧居が一時柏木(判決によれば「東京府豊多摩郡淀橋町柏木」)にあったことも感慨をそそるが、この柏木には一時社会主義者が大勢住んでいたということで、荒畑寒村も一時住んでいたという(証言)。大逆事件判決のなかの内山愚童について「(明治42年1月)翌15日菅野スガヲ東京府豊多摩郡淀橋町柏木ノ寓居に訪ヒ、スガハ若シ爆弾アラバ身命ヲ抛チテ革命運動ニ従事スベキ意思アルコトヲ告ゲ・・・」のようなくだりなどを読むと、60年の歳月をへだてて当時の柏木のことがつい昨今のように身近に感じる。(前掲書p157)
って、俺と同じようなこと感じてんじゃん!http://ameblo.jp/mfb1991/entry-12083320264.html・・・じゃなくて俺が同じように感じているだけか。

 ・・・なんて思いながら、読み返しました。60年の安保闘争のこと、それから以下のようなベトナム反戦のラッセル法廷のフランス政府のサルトルを介しての攻防など、今の状況との重なりもすごく感じます。

 (注 1967年)4月23日の新聞は、ド・ゴール大統領からサルトルに対し、フランスでの法廷開催を正式に拒否する文書をおくったと伝えた。それで私たちも迷ったが、ベトナム当局からタイグエンその他工業センターなどへの大規模な爆撃を知らせてきており、一瞬の遅れも許さない状況だったので、ともかく出発して法廷側を督励しようということで、出かけたわけであった。パリその他で大体、次のようなことがわかってきた。3月はじめ公会堂で開催予定だったが、仏政府が「公開の場で外国元首を侮辱すること」を禁止したため、4月26日から傍者を報道関係だけに限定して、パリのコンチネンタル・ホテルで開くことにした(4月10日サルトル発表)。しかし同ホテルが会場予約をキャンセルしたため、ふたたび会場を変え、4月29日から5月9日までパリ郊外の町立劇場で開くことになった(4月17日発表)。ところが、4月10日すぎ政府はサルトルに対し、法廷開廷期の議長(裁判長)デティエの入国を拒み、これに対するサルトルの抗議に対し、ド・ゴールはサルトル“先生”あて4月19日付書簡で「伝統的に友邦である国家(アメリカ)が、フランスの領土内で、国際法及び国際慣例に外れた訴訟行為の対象となることは避けるべく努める義務」があることを強調した。(『権力に対する抵抗の記録』p67)

 やれやれ、俺は何をやっているんだろう?とちょっと焦ったりして・・・。

 森川金寿が死んだのは2006年、もう9年経ちます。父は穏やかで、ユーモラスな人でした。けれど、森川金寿は、すごい人でした。私は私で、個人的に意識しながらやるべきことをやっていきます。時々、はっぱをかけてもらいながら。