提案 黙秘と「被疑者による捜査の録音・録画」というアイデア | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 安保法制をめぐる国会と私たち民衆との攻防により、今国会での成立を阻止できた一連の「新捜査手法」法案。
 盗聴拡大・司法取引・証人隠蔽、そして取り調べの録音録画制度のいずれも私たちの自由と権利を制限するものであり、これまで何度も、何度も指摘してきたとおり廃案に追い込まなければなりません。

 大きな問題は、日弁連がこの法案に賛成、むしろ推進の立場に回ってしまっていることです。私は、この日弁連の姿勢は、権力に対する屈服=民衆に対する裏切りだと思います。来年の日弁連会長選挙でも重要な争点になります。

 「取調べの録音・録画制度」を「取調べの全面可視化」への一歩前進と位置付けるか、という点が大きな焦点です。

 『季刊 刑事弁護 82』では、すでに取調べの録音・録画がなされている状況下での黙秘による不起訴事案(p56)や「取調べ」は録音・録画されている状況下で「移動中のエレベーターの中」で「取調官が『黙秘は悪いことをした人がすること、黙秘しても悪い人と思われるだけだ』と言ってきた」事案(p60)の報告がなされており、大変、参考になります。

 そもそも、取り調べる国家機関側が「例外」がある状況下で録音・録画することが私たちにとっての「可視化」なの???という疑問はなんども指摘してますが(http://ameblo.jp/mfb1991/entry-12046576705.html)、改めて「黙秘権」との関係も考えてみたいと思います。

 黙秘とはつまり取調べの応じないことですが、なぜ、このような沈黙が権利として認められるに至ったか、といえば、いうまでもなく、過去において大逆事件、横浜事件等を持ち出すまでもなく、国家権力が「取調べ」という名の下に暴力・恫喝・脅迫を用いて虚偽の自白を引き出してきたという歴史的経過があるからです。
 つまり、監禁(勾留)した状態での被疑者を取調べること自体、国家暴力の温床であり、むしろ、被疑者に自白「させる」ことを証拠にすることの非合理性こそが明白だから、だと思います。

 だって、被疑者本人がなんて言おうと(認めようが、認めまいと)、その他の客観証拠で判断すべき、じゃないですか?

 ということで黙秘権は重要であり、それにも関わらず、検察官、警察官らが「黙秘権を行使します」という被疑者に対し、権利を行使しないように「説得」することが認められていること自体、国家が権利を実質的に侵害している現実であり、また、自白により事件を解明しようという「手抜き」であると同時に真相究明から離れる危険性に対する無自覚の表れでしょう。

 「取調べの全面可視化」の趣旨が、国家がかつての特高のように捜査の名を借りて、私たちに対し犯罪的な暴力・恫喝を行うことを抑止することを目的とするのであれば、その対象者である捜査側に録音・録画させても意味はなく、私は「被疑者による捜査の録音・録画制度」を提案します。

 逮捕時ないし任意同行時に、警察等は被疑者に(go proのような)ビデオカメラを渡し、逮捕・勾留中、随時ないしは23日間全て録音・録画することを認めるようにする、ということです。

 その上で、「黙秘権を行使」に対する捜査機関の「説得」の違法性を明確化し、そのような行為を黙秘権妨害罪など刑罰による犯罪であることを明確にするのです。

 つまり、黙秘権を確保するための被疑者による捜査の録音・録画制度です。これが制度化すれば、被疑者に対する取調べは、捜査側にとっても参考程度のものになり、被疑者の自白を得ること以外の客観証拠を集める捜査に力を注ぐようになるでしょう。そうすれば、虚偽自白による冤罪は減少するでしょうし、捜査機関の初動捜査の思い込み・決めつけによる真犯人を取り逃がす、ということも減少するでしょう。

 ・・・なんてことは、国家権力はしたくないんでしょうねえ・・・でも、権力がしたくないことじゃないと、私たちにとっては意味はないでしょう。