どなたかが言ってましたが、「過激派」という言葉を、そのまま使うのは、例えば、戦争のことを「安全保障」と呼んだり、軍隊のことを「自衛隊」と言ったり、原発の爆発を「爆発的事象」と言い換えるのと同じく、「権力造語」をそのまま使って、よくないんじゃないの?という気は私もします。
『日刊ゲンダイ』によると「24日に開催された日比谷野外音楽堂や官邸周辺、国会前でのデモでは現場に向かう道路に警官がズラリと並んで人の流れを規制し、あちこちに柵や三角コーンを立ててスペースを狭めていました。デモの規模を抑え込もうとしているのは明らか。違法にもかかわらず、公安は次から次へと参加者を撮影して威圧し、弁護士有志の『見守り弁護団』がそれに繰り返し抗議する。ちょっと異常な光景でした」なんてことが書かれていますが、これまで報道されないか、皆が現場を知らなかっただけで、「過激派」が反戦・反原発のデモや集会が行われれば、このようなデタラメな権力の嫌がらせは、常に横行しています。
それでも、これまで特に皆さん、気にせず過ごしてきた(いや、今も気にしていない人は気にしていないでしょうけど・・)のは、これまではマスコミで取り上げる場合でも「過激派の集会」だとか「過激派がデモで公務執行妨害で逮捕」みたいな報道なので、「まあ、仕方ないよな」で済ませてきたからだと思います。
権力というのは、権力にとって目障りな存在、表現、そして思想を潰すことに躍起です。戦前・戦中の特高警察と同じく、今の公安警察も存在理由はそこにあります。
戦争反対の声がだんだん力を帯び、拡大し、若い人、高校生まで声をあげるようになってきました。権力にとっては戦争反対や原発反対を多くの人々が言うようになってきたので脅威を感じているのでしょう。
・・・ということで、いまや多くの「過激派」が誕生しつつある、ともいえます。「え? 俺は過激派じゃないよ、一般人だよ」と思いますか?まあ、多くの「過激派」と名指しされている人もそう思っています、実際そうだしね。
考えていること、言っていることだけで差別する、偏見を持つっていうのは怖いですよ。『茶色の朝』ではないですが、最初は「一部の奴らだけだ」と思っているうちに、いつしか自分の玄関前に「茶色党」が迫ってきている、それが一方では今の状況かもしれません。
自分たちの中で、「過激派」とか「一般人」とか差別・偏見をもってお互い分断・差別しあうのは「権力」の思う壺。
まあ、権力から見れば、逆らう奴らは皆、「過激派」なんだから、この際、みんなで「過激派」になっちゃいましょう♪ みんなで過激派になれば怖くないですよ~!