『石に泳ぐ魚』のチカラ | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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今朝の朝刊に柳美里さんが出ていました。私は、かつて出版差し止めが問題となった柳美里さんの小説『石に泳ぐ魚』事件の上告審の代理人を柳美里さん側で務めました。本の虫だったことが、先輩弁護士に伝わり、受任に至ったのです。

一緒に柳美里さん側で引き受けた弁護士には喜多村洋一弁護士という先輩がいて、かつてはピースボートvs文春の裁判で相手方だった弁護士。そして、この裁判の相手方には、木村晋介弁護士、梓沢和幸弁護士など、かつては一緒に裁判を行った弁護士という、ホント、弁護士の世界は狭いな、という事件ではありました。それが、事件に影響することはありませんが。

結果的には、最高裁でも差し止めが維持されてしまい(2002年9月24日)、小説はそのままでは出版できない、という結論になりました。

当然のことながら、その出版できないことになったオリジナルの『石に泳ぐ魚』を事件の資料として読みました。柳美里さんの作品はそれまで読んだことがありませんでしたが、とても力のある作品であり、かつモデルとなった女性に対する強い愛を感じるものでした。
もちろん、そのモデルとなった方が嫌だ、出版を差し止めたと起こした裁判なのだから、作者のその想いは伝わらなかった、溢れんばかりの愛は通用しなかった、ということだった訳です。

表現の自由とプライバシー権、裁判ではそれが争点となり、プライバシー権が優先しました。もちろん、文学、表現の自由は絶対的なものではないのでしょう。

むしろ、大事な表現こそ潰したい、というのが権力の本音、コマーシャルな表現、権力・政府に無関係な非政治的表現、当たり障りのないエンターテイメント、つまり、権力にとってどうでもいいような表現には自由を認めるけど、力があったり、みんなの心に響いたり、権力の重要な恥部を暴露するような表現は許し難い、ということだと思います。

実際のところ、自分の発言、発信、行動が、まったく規制・制約されたりしたことがない人には、表現の自由など必要ないし、そもそも関係ないのだと思います。発言を止められたり、非難や罵声を浴びたり、時に追い出されたり、入れなかったり・・そういう局面でこそ、表現の自由が問題となるのだと思います。


オリジナルの『石に泳ぐ魚』は、そのままでは世に出せないと裁判所が判断する、表現だったということになります。それは、褒められたことでも、誇ることでもないでしょう。しかし、そのような力がこもった作品=表現を作り出す力、というのは、表現に関わる以上、必要な力なのだと確信します。