今年で、弁護士25年。弁護士なってからでも、「司法改革」という酷い政策により、弁護士は激増、カネのかかるロースクール制度は出来る、修習期間は短縮、おまけに給与は貸金になる、など激変を遂げました。「法曹有資格者」なる、非・弁護士の存在も政府が率先して認めようとしています。
これは、ひとえに新自由主義として、民衆と共に闘う弁護士会を解体、変質させるための「攻撃」であり、弁護士自治をつぶそうという政府の政策だということは今や誰の目にも明らかだと思います。
弁護士会は、民衆側に立ち、大資本・権力とも闘うために弁護士自治を戦後、獲得したのです。
2006年に93才で亡くなった父が2004年の日弁連総会の後の永年在職者表彰式で、弁護士在職60年ということで代表してスピーチを行いました。
「顧みればこの半世紀以上の歴史の出来事は、日本にとっても、われわれ弁護士にとってもめまぐるしいものがありました。
私は昭和11(1936)年に大学を出て、同13年弁護士となった者ですが、大学卒業まぎわに2.26のクーデターが起こりました。
その後、戦争の継続で弁護士活動も一時あきらめざるをえない情勢となりました。
ところで日本弁護士連合会の出した『日本弁護士沿革史』によると太平洋戦争末期に、弁護士に対し、憲兵や警官から『正業につけ』といわれるようになったして、その経験談が出ています。それによると「戦時物価統制令で検挙された人のもらい下げに九段の憲兵司令部へ行って係の憲兵か軍曹にあって種種事情を説明してもらい下げを頼んだ。ところがその軍曹は居丈高になって『この非常時に先生らはどうしてあんな国賊の弁護をなさるのか」というので「国賊かどうか裁判してみなければわからないではないか」といって立ち去ろうとしたら、彼は私を呼び止めて「先生方もそろそろ正業についたらどうですか』と言われた」との体験談がのっています。
また、昭和8年5月制定の弁護士法34条には「弁護士会ハ司法大臣ノ監督をヲ受ケル」また第42条「司法大臣ハ弁護士会ノ総会又ハ役員選挙ノ場所ニ臨席シ又ハ所部の官吏ヲシテ臨席セシムルコトヲ得」などと、これではまるで弁護士会は要監視団体であるかのような規定があります。今日から見れば全く隔世の感があります。
私どもが今日の如く自由闊達な活動ができるのは、(注 戦後自治を獲得した)これらの先人たちの努力によるところが大であると思います。
私どもは今後とも基本的人権を擁護し、社会正義の実現をする使命の達成に邁進したいと思います。」
10年経って、父の生きた時代と同じようなきな臭い時代が迫ってきて、弁護士への攻撃も増しています。不祥事が目立ち、また、若手弁護士の中からは自治に対する負担への不満も出始めています。
これらは、すべて「司法改革」のスタート時点から政府にとっては折り込み済のことだったのです。わからないわけがない!日弁連が、それに与したことは許し難い汚点と言わざるを得ません。
しかし、まだ、解体されていません。時代を繰り返す必要はない。私は、きちんと99%側に立って闘う弁護士として弁護士会の自治を守り抜きたいと思います。