武器の供与は犯罪にならないのか? | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 殺人する予定の人に銃を渡す、というのは典型的な殺人の幇助犯です。当然だと思います。だとしたら、銃その他の殺人兵器を輸出し戦争をする軍隊に渡す(売却する)行為も犯罪ではないか・・・

 そういう疑問が出てくるのが自然ではないでしょうか。なぜ武器を製造し、販売する行為が違法な行為として取り締まられないのでしょう?

 それは、そうすると「武器・軍需産業」が商売できないから、ということです。

 殺人だろうが、賭博だろうが、国及び大資本がやりたい場合は、それを取り締まるような法律を作ることはありません。資本主義下での法律とはそういうものでしょう。

 だけれども、普段、犯罪である行為が、仮に戦争になったから合法、むしろ賞賛される行為になる、という「価値観の転覆」については、法律がどうであろうと、私たちは冷静にきちんと批判的に認識する必要があると思います。

 『戦争論』においてカール・フォン・クラウゼウィッツは、「戦争は異なった手段による政治のたんなる継続である。」という指摘をしています。

 「戦争は諸政府間および諸国民間の政治的諸関係からのみひきおこされるものであることは、もちろん、誰でも知っている。だが、普通、人々は、戦争の開始とともにこれらの関係がなくなり、自己独自の法則にだけしたがう、まったく別な事態がやってくるように考えている。
 われわれは、これに反して、戦争は、他の手段の介入による政治的諸関係の継続にほかならない、と主張するものである。」

 クラウゼウィッツが、言わんとしていることは、戦争になったから急に戦争独自の価値観に皆、誘導され「戦争だから仕方ない、戦争だから国のために他国の人を殺すのは当たり前だ」「戦争に参加し、他国の人を攻撃しないのは非国民だ」みたいになってしまうのはおかしい。戦争はそれまでの平時の政治的関係を「異なった手段」、つまり暴力・軍事により解決する方法にすぎず、突如、それまでの関係とは別の排外主義的な対立が生じるわけではない、冷静に物事を判断すべきだ、ということだと思います。レーニンが『第2インターナショナルの崩壊』でも引用し、強調しているところです。

 平時だろうが、戦時だろうが、悪いことは悪い。人殺しは人殺し、それを助ける行為は殺人の幇助である、ということです。昨年4月、武器輸出を大幅に解禁という方針に転換しました。武器の開発・輸出等を担当する「防衛装備庁」なるものも、今年の10月に発足させようとしています。

 それは、当たり前のことではない・・・今は、まだ平時、だと思います。いや、もう「戦前」なのか・・・。
 
 私たちは、殺人幇助に与しようとしていないか・・・冷静に考えましょう。