いろんなことやいろんな人たちが通り過ぎて行き
何か一つ終わって行った感じする今日この頃です。






ずいぶん長い間かかって
思い出したくないことも多いし
何も変わっていないといえば変わっていないのかもしれないけど
ぐるっと一周して戻って来れたと思える
そんな感じです。









自分には重たすぎて座り込んでしまったり
屈折してしまったりすることもある。
だけど、ときには助けてもらうことも覚えながら
素直に、まっすぐでいようとすることはほんとはいつだってできて
気付いてみるとこんなに普通で当たり前のことだったんだとわかる。









いろいろなことを経験して
世の中とか人について知って
「現実を見ろ」というようなことをいう人の中には
あきらめとかニヒリズムを持ち出す人もいるけど
よーく目を凝らしてその人たちの言う「現実」を見ていると
必ずしもそうとは言えないんじゃないかと思えてくる。








どんなに情けなくて、「だめだのぉ(_ _。)」と思う自分でも(笑)
ずーっと奥の方まで目を凝らしてみると必ず「高貴」な部分があって
それを自分の中に見出すことそして大事にしていくこと
自分以外の人の中にもそれを見出していこうとすること








何か特定の宗教を信じているわけではないんですが
自分が信じるものというか困ったときに立ち戻るところというか
そういうものを思ったところでした。













人であろうと、ものであろうと、目標であろうと

自分が愛情を注ぐべきものは、

いつも自分のことを待っている。







自分にまっすぐ見てもらえることを

待っている。













見ている”つもり”になっているのは

間に大きな「自分」を通して見ているからか?

相手を見ているつもりがいつの間にかすり替わった、

鏡に映る自分の姿を見ているからか??











合わせ鏡の中の自分の姿を追っている限り

抜け出せない。











たぶん本当はただそこに見るべきものがあるだけ









見るべきものはそこにあり

誠をつくすべきものはいつも待っている。















努力してないわけじゃないけどいまひとつなのは

つながっていないから??







単純に知識を有機的につなげていくということもそうだし

目の前のこととそのほかのこと

そして、自分と周りの人

自分と向こう側








自分の振る舞いや言葉はどうだろう

すべてがつながっているなら部分が全体を変えることも

当然あるはず。









すべてをつなげるというと抽象的・・・

自分の言動に注意すると言うと聞こえはいいけど

実際にできているかというと疑問・・・








身の回りの整理整頓や掃除をきちんとしておくことはもちろんだけど

まずは字をきれいに書くこと

自分の立てる音をできるだけ小さくすること

に注意したいと思います。