之(これ)に依(よ)って経に云(い)はく「若(も)し経律(きょう りつ)を離れて是(こ)の説を作(な)さば当(まさ)に知るべし即(すなわ)ち是(これ)虚説なり」云云。像法決疑経に云はく「諸(もろもろ)の悪比丘(びく)、或(あるい)は禅を修すること有るとも経論に依らず、自ら己見(こけん)を逐(したが)ひて非を以(もっ)て是(ぜ)と為(な)して 是邪(これ じゃ) 是正(これ しょう)と分別(ふんべつ)すること能(あた)はず。遍(あまね)く道俗(どう ぞく)に向かって是(か)くの如(ごと)き言(ことば)を作(な)さん。我 能(よ)く是(ぜ)を知り、我 能く是(ぜ)を見ると。当に知るべし、是(こ)の人の速やかに我が法を滅(めっ)せんことを」文(もん)。玄(げん、細雪注・天台大師 説の『妙法蓮華経玄義』のこと)の一に云はく「若し観心(かんじん)の人、心に即(そく)して而(しか)も是(ぜ)なり、己(おのれ)則(すなわ)ち仏に均(ひと)しと謂(おも)ひ、都(すべ)て経論を尋(たず)ねずして増上慢(ぞうじょうまん)に堕(だ)す。此(これ)則ち炬(こ)を把(と)って自ら焼く。行の悪道を牽(ひ)くことは。其(そ)れ聞くことを習はざるに由(よ)るなり」と。此等(これら)の文釈(もん しゃく)、経論によ(依)らず教外(きょうげ)に別伝ありと云はんは、天魔・外道・上慢・破法・堕悪の者なるべしと云ふ証拠なり。故(ゆえ)に教外別伝とは全く仏法に非(あら)ずと云ふべきなり。設(たと)ひ録(ろく)等に此(こ)の旨(むね)ありとも、録は人師(にんし)の釈なり、仏説に非ず、信ずべからず。我 則ち 仏、我 既に解(さと)りたりと云ひ、又 是心是仏(ぜしんぜぶつ)と云ふとも経論に依らずば さと(悟)りにもあら(非)ず、心法にもあらず仏法にもあらず。
(平成新編0333~0334・御書全集ーーーー・正宗聖典----・昭和新定[1]0514~0515・昭和定本[3]2048)
[文永01(1264)年(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]