但(ただ)し 人師(にんし)の釈(しゃく)の中に、一体と見えたる釈ども あまた(数多)侍(はべ)る。彼(か)は観心(かんじん)の釈か。或(あるい)は仏の所証(しょしょう)の法門につけて述(の)べたるを、 今の人 弁(わきま)へずして、全体一(ひとつ)なりと思ひて 人を僻人(びゃくにん)に思ふなり。御景迹(ごきょうじゃく)あるべきなり。念仏と法華経と一つならば、仏の 念仏 説かせ給(たま)ひし観経(かんぎょう)等こそ如来出世の本懐(ほんがい)にては侍らめ。彼を本懐とも をぼしめさずして、法華経を出世の本懐と説かせ給ふは、念仏と一体ならざる事 明白なり。其(そ)の上 多くの真言宗・天台宗の人々に値(あ)ひ奉(たてまつ)りて候(そうら)ひし時、此(こ)の事を申しければ、されば僻案(びゃくあん)にて侍りけりと申す人 是(これ)多し。敢(あ)へて証文に経文を書いて進ぜず候はん限りは御用(おん もち)ひ有るべからず。是こそ謗法となる根本にて侍れ。あなかしこ あなかしこ。
(平成新編0332・御書全集0116・正宗聖典----・昭和新定[1]0512~0513・昭和定本[1]0301~0302)
[文永01(1264)年(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]