3月
縁あって、地元公民館のシニアサークルで、コーラス兼ヴォイストレーニングの講師を始めました

ヴォイトレなんて言えるほどの内容は教えられないのですが、とても楽しく、有意義な時間を過ごさせて頂いてます


あるメンバーのお一人は言います

「家にいるとね、主人と二人きりでしょ、1日に喋りかけられることなんて 二言三言。フロ。メシ。寝る。(笑)
誰とも喋らず笑いもしないと、寂しいもんですよ~。だから、コーラスに来るのが楽しみなんです」


私も皆さんと、歌うことだけでなく、他愛もない会話をすることも 楽しく感じています


毎回、童謡唱歌も取り入れるのですが、今週は「われは海の子」をうたいました

この曲は、実家で祖母を在宅介護していた時、よく一緒に歌った思い入れの強い一曲です


今日は、私が一緒に生活してきた祖母たちの話をしたいと思います

長文ですが、お付き合い頂けたら幸いです


*****


母方の祖母は 認知症が酷く、昼夜共に全く寝ずに喋りまくる ハイテンション期が何日も続いたかと思うと、今度は一切の回路がオフになり寝続けました

ひと度オフになると、たとえベッドに起き上がっていても、一言も発せず、一点を見て動かない

おばあちゃん、と声をかけても、くらーい顔してピクリとも反応しませんでした

そしてまた、深夜、突然ハイに切り替わり、ひっきりなしに話しかけてくる

その日数サイクルを掴むまで、結構かかりました

様々な介護制度をうまく利用しながらも、母一人にかかる負担は やはり大きく、たまに手伝うだけでは もう母の限界を超えていたことから、私は仕事を辞め、一人暮らしを切り上げ29歳で実家に戻りました

日中は母が見て、私が睡眠をとる
夜間は私が祖母と同じ部屋で寝て、一時間おきのトイレをサポートしたりオムツを代えたりと、試行錯誤しながら なんとか手伝いました

私が実家で生活するようになったことで、母もだいぶ気持ちにゆとりが出来、私は再就職しました
それでも当然、祖母との同部屋生活は続いており、いつしか 寝ながら祖母の相手をする技を習得

深夜のトイレも、ドアのこっち側で待って、終わりました~~って声が聞こえるまでの間も、床にしゃがんで寝て、また紙パンツを履かせて、手を引いて布団まで戻りました


御多分に漏れず、祖母は実の娘である母を忘れ、どなたか存じませんが 色々良くしてくださって ありがとうございます、なんて言ってました

ハイの時は、ただ陽気なだけでなく、幻覚幻聴もあり、攻撃的な言動をする日も少なくありませんでした

どこに そんな力があるのかと思うほど、大きな声で コノヤロー!!と叫びながら殴られることもありました


深夜3時すぎ、リツコさ~~~ん、どこにいますかー、リツコさ~~ん、と母を呼びまくる祖母に、 リツコさんはいま買い物行ってるよ、どうした?トイレ?と聞くと、淋しいんです~、いつ帰りますかねぇ、、と 

忘れちゃうのに、やっぱり、リツコさんなんだなぁ~、と

母とは、茶飲み話しながら、沢山笑って、泣いたものです


*****


私が生まれたとき我が家には、この祖母の他に、祖父、祖々母、祖母の弟も一緒の大家族でした

私が幼稚園の頃に祖父が、小学生の時に祖々母が、自宅で息を引き取りました

祖々母の時は鮮明に覚えています

台所で母が昼の用意をしていて、祖母と 私の弟は リビングのテレビで高校野球を見ていました


水道の音、解説者の声、応援団の声、金属バットにボールがあたった音、母のスリッパの音、祖母と弟の歓声

全ての音を、今でも思い出せます

いつも通りの 家族の日常音がするのに、私は全く別世界にいる感覚で、風鈴がチリンチリンなる奥の部屋で、風が祖々母に直接あたらないように気を付けながら、うちわをゆっくり ゆっくり 扇いでいました

当時は家族が自宅で亡くなることも当たり前ですから、往診の先生も、最後はご家族と一緒に過ごすほうが幸せです、と、敢えて入院させることはしませんでした


布団に横たわり、虫の息の祖々母

たまに息が荒くなると、子供ながらに不安を感じて母を呼び、少し安定すると 母は私に「お願いね」と言って またキッチンへ戻る

そんなことを数回繰り返すうちに、いよいよ その時が来ることを察知し、大声で家族を和室に呼び寄せました

医者に電話すると すぐに駆けつけてくださり、みんなで ひいおばあちゃんを囲んで正座して、最期の瞬間を 涙と共に、ありがとう、お疲れ様の感謝の言葉でお別れしました


祖々母は寡黙な人だったので、同じ家に住みながら、あまり会話した記憶はありませんでしたが、小さい頃は おばあちゃん二人のいる二階の部屋に入っていくとニコニコしてくれて、その顔見たさに襖をあけるのをワクワクしました


*****


時は過ぎ、祖母の介護のサポートに実家に戻ってからは、日中、祖々母が最期を迎えた下の部屋に下りて過ごしてもらい、夜は二階の部屋に上がり 祖母と二人、同部屋生活をしました

昼間、二人でお茶を飲んでいると、仏壇の方をじーっと見て、私とは別の誰かに、そんな端っこにいないで、もっとこっちにいらっしゃいよ~、と手招きする祖母

ゾワゾワして、あー、あー、おかあさーん!!ちょっとー、、(涙目)
と台所にいる母を大声で呼んだこともあります


そんな祖母でしたが、ロウに入っているとき、私が童謡唱歌を歌うと、うっすら口を動かすことがありました

ある時、「われは海の子」を歌いました

すると
煙たなびく 苫屋こそ
我がなつかしき 住家なれ
のところで、ポロポロと泣くのです

決して海のある所で育った訳ではない祖母が、子供みたいに涙を溢しました

歌の力ってすごいなぁ、と感じた瞬間でした


*****


時を経て、両親は 父方の祖母を引き取って同居をスタートさせていました

母は、自分の母親を看取った時とは、また違う大変さを味わっていました

父は、母に感謝しつつも、それをうまく伝えることが出来ないでいたかもしれません


*****


祖母の部屋は、一階の仏間の隣の和室です

38歳になった私が 娘と手を繋ぎ、近所に聞こえるくらいの大きな声で、何度も何度も たくさんの唱歌を唄いました

「われは海の子」を歌うと、祖母も楽しそうに歌ってくれました


三世代の歌声を、庭で父が涙を流しながら聞いていた、と あとから母に聞きました

男の人は、不器用だね
でも、感謝してるんだよ
幸せだなぁ、って、有り難いなぁって、泣いてるんだもんね

母のその言葉は、母自身の疲れを少し癒しているように感じました


*****


綺麗事なんていってられないのが介護の現状

腹も立つし、苛立ちもします
悔しい思いも、情けなさも、色んな感情に渦巻いて、投げ出してしまいたくなる日もあるのが本音です


しっくりくる言葉がわからないので、誤解をあたえてしまう言い回しかもしれませんが、私が育ってきた環境で 誇れるものがあるとしたら、それは、おじいちゃんおばあちゃんの最期を見届けてこれたことです

一緒に住んでいた母方の祖父も、父方の祖父の時も、母の叔父である祖母の弟の時もそうです

私は母と共に、ケアマネさんや役所とのやりとり、なかんずく、葬儀に至るまでの大半を ざっくりとですが経験させてもらえました

時代の変化と共に、制度や利用方法も変わっていくのかもしれません

ですが、家庭でも病院でも、介護現場に於いて変えてはならないのは、どこまでも、その人を大切にしていく、ということじゃないかと思うのです

介護される人
介護する人

その一人を大切に、時に同苦し、その人を守らんとする太い根っこが張っている限り、そこに幸せは芽吹き、自分だけでなく、一家、親族へと拡がるんじゃないかって、期待してしまうのです

それこそ、綺麗事ですけどね


時に、色々な試練が待ち受けているのが人生ならば、ここからもっと、地に根っこを張り巡らせて、図太く笑って生きてみようと思います


*****


今、介護真っ最中の方、そして、病と付き合いながら前進しているあなたへ


頑張りすぎず、力を抜こう
周りに頼ろう、歌 うたおう!(笑)


「一人じゃない」って、鬼に金棒