離婚調停 | ときひなの書庫

離婚調停

「ふざけるな! 離婚だ、離婚!」
 目を血走らせ大声を上げる康彦に、私は声が出ない。
「早く出て行け! そっちが出て行かないなら俺が出て行く」
 目の前で起きている状況に対応出来ずにいる私に痺れを切らしたように、康彦は声を荒げ財布に携帯、必要最小限のものを手に家を出て行った。
 いつもより手の込んだ料理の並ぶ食卓を前に、訳も分からず一人取り残された私は崩れるように座り込んだ

 ――結婚してもうすぐ七年。
 お義母さんからは、「いい加減子供を作りなさい」と言われ続けてもうすぐ五年になる。
 「子供は神からの授かりものなんだから、そんなに焦らなくてもいいよ」と言って不妊治療に協力してくれない康彦に、私は焦りを感じていた。
 義妹は結婚して直ぐに妊娠し既に三人の子持ちで、いつも大勢で実家へとやって来ては皆を楽しませている。
 私も早く我が子を抱きたいと思いながら、気がつけば三十三歳になっていた。
「仕事なんて辞めて子作りに専念したらいいのに」
 義妹の言葉が心に突き刺さる。

「よし! 今日だ」
 体温をノートに書き込みながら声を上げる。
 「今度こそは!」そう思い続けて何度目だろうか。それでも我が子という夢は諦める事は出来ない。
 仕事が終わると急いで家に帰り、いつも以上に手の込んだ夕食の準備をする。
「お? 今日はまた美味そうだな」
 康彦の言葉を思い浮かべ、頬を緩ませながらの準備はそう重荷でもない。
 康彦は家事にも協力的で、いつも労わりの言葉を掛けてくれるいわゆる「良い旦那」だ。
 彼の為ならばどんなに仕事で疲れた日でも、家事の手を抜こうなんて考えられない。
「ただいま」
 玄関から聞こえてくる声に、慌ててエプロンで手を拭きながら玄関へと向かった。
「おかえりなさい」
 私の言葉に微笑み、ネクタイを緩める姿に私も笑みを漏らす。
 私の前だけで見せるしぐさに胸をときめかせながら、背広を受け取り一緒にリビングへと向かった。
「お! 今日は肉ジャガか」
 嬉しそうな声を上げる康彦に、私は背広をハンガーにかけながら笑い声を漏らす。
「な、なんだよ」
「ううん、本当に肉ジャガが好きなんだなって思って」
「いいだろう? 好きなんだから」
「ふふっ、次の日のコロッケもでしょ?」
 そう口にする私を後ろから抱きしめ、康彦は唇をふさいだ。
「んっ」
 甘い口づけに応える様に、私は振り返り康彦を抱き返す。
 長い口づけに私の中の女が反応する。
 それに気付きながらも、康彦は知らぬふりをして湯気を上げる食卓へと立ち去っていく。
「もう!」
 康彦の後姿に悪態を付きながら私は後に続いた。

 微かに寝息を立てる康彦の厚みのある胸に顔を埋め、私は幸せに満たされていた。
 康彦好みのストレートボブは乱れ、事情の激しさを物語っている。
 濃く長いまつげ、シャープな顎、もうすぐ三十八になろうとしている康彦の髪には、最近白髪が目立ち始めていた。
「ふふっ」
 二人の子供が生まれたらどんな姿だろうと想像し、声が漏れる。
 きっと可愛いに違いない。いや、どんな姿だろうとも、可愛くないわけがない。
 こんなにも愛しい彼との子供なら。
 私は彼を受け入れたお腹をさすり、「早くおいで」と心の中で呟いた。

「もしかして……」
 毎日付けている基礎体温のグラフは、そろそろ下降するはずが高温を維持していた。
 期待に胸が高鳴る。
「どうした?」
「え? ううん、なんでもないよ」
 眠そうに目を擦り起き上がる康彦に、答えそうになりながら思いとどまった。
 まだ確定ではない。後一ヶ月は経たないと病院でも太鼓判はもらえないだろう。
 そう思いながらも、胸は弾んでいた。
 基礎体温を測り始めて四年になるが、これほど高温を維持した事はなかった。
 喜びに胸を高鳴らせながらも、出来ていなかった時の事を考え落胆しないように自分に言い聞かせる。
「ふふふっ」
 それでも、この胸の高鳴りは抑える事が出来なかった。

 月経予定日が来ても、未だ高温を維持している体温に期待は更に高まっていく。
「もう少し、もう少しね」
 緩む頬を押さえながら、カレンダーを見つめた。
 後二週間は様子を見たほうがいいだろう。それでも、生理が来なければ念願の産婦人科へ行こう。
 康彦の喜ぶ顔が目に浮かんでくる。もう、お義母さんに文句を言われる事も無くなる。はやる胸を押さえ自然と潤んでくる瞳に「まだ、もう少しよ」と言い聞かせた。

「松野さーん、松野由紀さん。中へどうぞ」
 受付から聞こえてくる声に、「採尿もしたし後は結果を聞くだけ」飛び出しそうになる胸に言い聞かせ診察室へと入っていく。
「陽性反応が出ていますので、エコーを見てみましょう」
 先生の言葉に涙腺が緩んでいく。白黒の画面には小さな空豆のような影が映っている。
「これが胎嚢ですね。まだ赤ちゃんの姿は確認できませんが、大丈夫。妊娠されていますよ、おめでとうございます」
 その言葉に堪えていた涙が溢れ出した。
「ありがとうございます」
「次は二週間後に来てくださいね」
「はい。あ! 予定日は……」
「もう少し様子を見てから予定日を算出しましょう」
「はい。ありがとうございます」
 予定日が聞けなかった事は残念だったが、それでも今このお腹の中に赤ちゃんがいる。それだけで心は満たされていた。
「康彦は仕事だし……帰ってきてから……」
 康彦の驚く顔が目に浮かぶ。どんなに喜んでくれるだろう。
 駐車場へと向かう私の口元は緩み、車に乗り込むとまず母へと連絡をした。
「おめでとう! よかったわね」
「うん」
 母の涙声に再び涙が溢れてくる。
 大声を上げて皆に知らせたい。そんな思いに駆られながら、お義母さんへも電話をかけた。
「赤ちゃんが出来たんです」
「え?」
 初孫ではないが長男の子供、母と同様に喜んでくれると思っていた。
「そ、そうなの? お……おめでとう」
 お義母さんの声は上擦り、動揺しているように聞こえる。なかなか出来なかったのに、不妊治療をせずに子供を授かった事に驚いているのかもしれない。
「また改めて報告に伺いますね」
「ええ」
 これで嫁としての役目は果たした。長年胸につかえていたものが消え去り、心が軽くなっていく。後は康彦に伝えるだけ、夜が待ち遠しくてたまらなかった。

 仕事も休みを取って時間はたっぷりある。
 今日は私達夫婦の記念となる夜になるだろう。これでもかと大量に食材を買い込むと夕食の準備に取り掛かった。
「ただいま」
 定刻に帰ってくる康彦を玄関で迎え入れる。少し不機嫌そうな表情でネクタイを緩める康彦から上着を受け取るといつも通りにハンガーへとかける。
 テーブルに並ぶ食事を見つめ立ち尽くす彼に、どんな嫌な事も吹き飛ぶ魔法の言葉を投げかけた。
「あのね、赤ちゃんが出来たの」
 どんな顔をするだろう? 驚く? 泣いちゃう? 私は期待に胸を膨らませ康彦の顔を見つめていた。
「誰の子供?」
「え?」
 何の冗談だろう? あまりにも予想外の言葉に混乱しているの?
「貴方の子供に決まっているじゃない」
 笑顔で答える私を、康彦は冷たい目で見つめていた。
「ふざけるな、誰の子供かって聞いたんだよ。このアバズレ」
 冷ややかな視線が、この言葉が本心である事を告げていた。私は息を飲み再び同じ言葉を口にする。
「貴方の子供よ」
「ふざけるな! 離婚だ、離婚!」
 目を血走らせ大声を上げる康彦に、私は声を失った。
「早く出て行け! そっちが出て行かないなら俺が出て行く」
 康彦は声を荒げ財布に携帯、必要最小限のものを手に家を出て行った。
「どうして?」
 訳も分からず私は崩れるように座り込んだ。
 一緒に喜びを分かち合うはずだった。望まれて、望まれてやっと宿った命。家族が増えて静かだったこの家もにぎやかになるだろう。そう思っていたのに……。喜びの涙が悲しみへと変わっていく。
「大丈夫だよ、大丈夫。パパは少し驚いただけだから」
 私はお腹をさすり、不安を抱いているだろう我が子へ声を掛けた。

 康彦はそのまま家に帰っては来なかった。次の日からいつも通りに仕事へと出掛けた私を、日々減っていく康彦の荷物が絶望へと陥れる。
「どうして……」
 子供が嫌いなら嫌いって言って欲しかった。でもそんなそぶりも見せず姪や甥をかわいがる姿に、「赤ちゃんが出来たら私の事かまってくれなくなるかも」って幸せな未来を覗かせていた。
 母にも、誰にもこんな事は相談できない。いつも通り、いやそれ以上に幸せそうに振る舞い、健診に行く度に成長した姿を見せる良く我が子に「大丈夫だよ」と言い聞かせ日が過ぎていく。
 そんな私に追い打ちを掛けるように、家庭裁判所から離婚調停の通知が届いた。
「大丈夫、大丈夫よ」
 心の不安を押し隠すように、お腹の子へと話しかける。
 この子ももうすぐ四ヶ月になる。産まれるまでには元の夫婦に戻りたい。
 頭の中に浮かぶのは、テレビドラマでみた裁判の風景。重々しい部屋で息が詰まるような裁判が繰り広げられていく。
「でも、この子の為にも誤解を解かないと……」
 強い決意を胸に、私は裁判所へと向かった。
 受付を済ませ案内された場所は、幾つものドアの並んだ簡素な廊下の突き当たりにある待合室だった。
 静まり返った廊下は事務的な造りでありながら、なぜか息苦しさを感じる。
 四畳ほどの部屋には、子供をあやす母親や作業着を着てため息を漏らす男性がソファーに座っている。
 軽く会釈をしながら中に入ると、ブックラックに置かれた雑誌を手に取りソファーへと腰掛けた。
 この人達も離婚調停に来ているのだろうか? そんな事を考えながら、頭に入らぬ雑誌に目を通していく。
 何かをしていないと落ち着かなかった。
 次々と名前を呼ばれ立ち去っていく人の後姿を見送り、雑誌へと戻した目線の先に小刻みに震える自分の手があった。そっと両手を握り締め、「大丈夫、大丈夫」心の中で呟く。
「松野さん、どうぞ」
 名前を呼ばれ大きく肩を揺らし立ち上がった。
 心臓が破裂するのではないかと思う程に、激しく波打っている。
 ドアを開けると想像とはかけ離れた簡素な部屋に長机とパイプ椅子が置かれていた。
 左側に少しふくよかで温厚そうな女性と、議員をやっていそうな神経質そうな顔をした男性が座っている。
 二人は立ち上がり、私を出迎える。
「こんにちは、今回の調停を担当する高橋と申します」
「私は今田です。どうぞ座ってください」
「よろしくお願いします」
 震える声で挨拶をし、進められるままに二人の対面となる椅子へと腰掛けた。
「調停委員は、社会生活上の豊富な知識経験や専門的な知識を持つ人の中から男女一人ずつ選ばれます……」
 男性の調停員――今田が決まり文句らしきことを語っているのを、ただ呆然と見つめていた。直ぐ目の前で話している人が、まるでテレビの中で語っているように感じる。
 非現実的な風景があまりにも当然のように目の前にある。
 これからどうなるのか、分からぬ不安に胸が震え調停員の言葉が頭上を通り抜けていく。
「――申立人であるご主人は離婚と慰謝料を要求されています。貴方はどのようにお考えですか?」
 高橋の声に一気に現実へと引き戻された。
「え? 慰謝料?」
「はい」
「……どうして、どうして離婚を要求しているんですか? 私、全然意味が分からなくて、子供ができた事を伝えると主人は突然怒り出して家を出て行ってしまったんです。なぜ怒ったのかも全く分からず、毎日家から少しずつ主人の物が無くなっていって、そして今回の調停……。どうしてなのか全然分からなくて……」
 自然と溢れ出してくる涙も拭う余裕すらなく、康彦が何か誤解をしていてその誤解を解く事さえできれば元に戻れるのだと私はそれを信じて二人へと訴えかけた。
「本気でおっしゃっているんですか?」
 今田は眉間に皺を寄せ、私を見下すように聞き返してきた。
 康彦が何を言っているのか、想像もできなかった。だが良い事を言ってはいないことぐらい察しはつく。
「はい。私達は世間的にも中の良い夫婦の部類に入っていたと思います。子供も出来てこれからはもっと幸せになるんだと思っていました。それが急に……理由が全然分からないんです。何が原因でこうなったのか、何が不満だったのかを知りたいんです」
 今田と高橋は顔を見合わせ、ため息をつくと私に向き直った。
「お子さんが出来たのですよね?」
「はい」
「それは誰の子供ですか?」
「え? 主人に決まっているじゃないですか! 私が浮気をしたとでも言うんですか?」
 私の言葉に二人は私を哀れむように見つめる。
「そんなにむきにならなくてもいいですよ、それに子供が出来た事をご主人に伝えた時点で、貴方が浮気をしたと告白したのと同じなんですから」
「はぁ? 全然意味が分かりません。誰に何と言われようと、私は浮気をしていないし、この子は主人の子供なんです!」
 今田は呆れた様子で、諭すように話し始めた。
「松野さん、『無精子症』ってご存知ですか?」
「無精子症? 精子がないって事ですよね」
「そうです。そして、ご主人が無精子症だった事はご存じなかったんですよね」
「え?」
「こういう事を私達他人に知られる事は、ご主人も不本意だったと思いますよ。ですが恥を忍んで話されていました。『心から信頼していたのに、裏切られた。無精子症である事はいつかは言わないといけないと思いながらも、関係が崩れるのが怖かった。だが平然と子供が出来たと言った妻に、自分が浮気したのだと報告する妻に怒りしか湧いてこなかった。信じていた分裏切られた事が赦せない。もう離婚以外には考えられない』と」
 何を言っているのか、理解する為に頭の中で一つ一つの単語を復唱し、言葉の一つ一つを噛み砕いていく。
 無言の私にやっと観念したかとばかりに今田は言葉を続けた。
「まぁ、そういうわけです。証拠はそこにあるんですよ、貴方のお腹の中にね」
 私は唇を噛み締めた。自ら噛んだ唇よりも、胸のほうが痛かった。
「……なんと言われたって」
「え?」
「なんと言われたって、していないものはしていないんです! この子は主人子に間違いはないんです!」
 本来中立であるべき調停員は、康彦に味方している。落ち着いて話し合えば誤解も解けて、仲良く二人で家に帰ることも出来ると信じていたのにそれは叶わないのだと打ちのめされた。
 その後数回康彦と入れ替わり調停員と話をしたが、康彦が私の言葉を信じる事は無く、私もやってもいない浮気を認めるような事はしなかった。
 何を言われても「康彦が分かってくれればやり直せる」と私が離婚を拒否する以上話が進むことは無かった。
「それでは、続きは次回に。次は一ヵ月後でご主人は第二週を希望されていますが……」
 事務的に話す調停員の言葉に頷き裁判所を後にした。
 家に帰り着いた私はリビングに崩れるように座り込み涙を流した。あの日とは違い、悔しさからの涙を。
「なんで? 何で、何で何で……」
 思い返してみればお義母さんのあの時の声。
「知っていたんだ。康彦が無精子症だって事。知っていて私に……私が出来の悪い嫁だって……」
 腹立たしさに、近くにあるものを壁へと投げつける。
 それでも、苛立ちは立ち去らない。
「痛っ」
 私の興奮が伝わったのか、急激に硬くなるお腹に私は一気に現実へと引き戻された。
「ごめん、ごめんね。ママ大丈夫だよ、大丈夫、大丈夫だから……」
 お腹をさすりながら声を掛ける。姿の見えない赤ちゃんが不安になっているのではないかと思うと、悔しさと寂しさと切なさで胸が苦しくなってくる。
 ただひたすらお腹をさすり続け、気がつけば窓の外は夜景が輝いていた。真っ暗になった部屋に慌てて明かりをともし、カーテンを閉めた。
「誤解の原因は分かったんだから、きっと何とかなる」
 自らに言い聞かせるように呟き、いつの間にかやわらかくなっていたお腹へと手を当てる。
「大丈夫、きっとパパも分かってくれるから」

 月に一度のペースで進んでいく調停は、平行線を辿ったままだった。
 無精子症の診断書を提出する康彦に対し、私はただ言葉で事実を伝える事しか出来ない。ありもしない事の証拠を提出する事は出来なかった。
 分かってもらえない事が歯がゆく、今まで一緒に過ごした時間がむなしく思える。
 お腹の中で赤ちゃんはすくすくと育ち、既に性別も分かっていた。
「そろそろいろいろと買い揃えないといけないのに」
 産婦人科に行けば、夫婦揃って健診に来ている姿が目に入り寂しさを増幅させる。
 それでも、我が子の姿が見られる数少ないチャンスを逃す事は出来ない。
「順調に成長していますよ」
 先生の言葉が唯一の救いだった。
 一緒に名前を考えたり、服を買いにいったり……やりたかったのに。あれほど夢見た瞬間を、独りで過ごしている。
 あんなに否定をしているのに、康彦は私を信じてくれない。
 「無精子症でも自然に子供は出来るんですか?」そんな私の言葉を、先生は「それは無理だよ。精子が無いから無精子症なんだよ」と笑い飛ばした。
 じゃぁ、この子は何? この子は誰の子なの?
 どんな泣いても枯れることのない涙は、フローリングに水溜りを作り続ける。

「誰の子かってあんたの子でしょ? 妻を信じる事ができない男なんて捨てちゃいなさいよ」
 一人で抱える事に疲れ切った私に、入社して以来――十年以上の付き合いになる親友の亜美は怒り半分に吐き捨てた。
「私の子……」
「そうでしょ? どれだけ言っても信じない男よ? 今回の事はDNA鑑定をすれば誰の子かなんて直ぐに分かるけれど、この先も同じような事があるかもしれないのよ? その時はどうするの? 自分の事を信頼していない人間とこの先ずっと一緒に暮らしていけるの?」
 亜美の言葉は私の胸に突き刺さる。
「由紀はどうしたいの? まだ旦那の事が好きなの? それとも赤ちゃんの為にしがみついているだけ?」
「どう……したい」
 私が浮気をしていない事を分かって欲しかった。赤ちゃんが出来た喜びを分かち合いたかった。一緒にこの子の成長を見守りたかった。
 思い浮かぶ事は全て過去形で、私が今康彦をどう思っているのか……以前のように愛しているのか……。
「分からない」
 私の言葉に亜美は頷き、私を抱きしめた。
「もう一度考えてみなさいよ、自分が幸せになるにはどうしたらいいのか。由紀が幸せにならないと、生まれてくる子供も幸せにはなれないよ」
 亜美の胸は温かくて、暗い闇へと突き落とされていた私の心に亜美の言葉が浸透していく。
 確かに鑑定をすれば私の疑いは晴れるだろう。そして康彦が家に戻ってきたとして、今まで通りに出来る? お義母さん達と、今まで通り接する事が出来る? それにいつかはやってくる両親の介護。康彦を愛しているからこそ出来ると思っていたけれど、今は自信が無い……いや、それどころかやりたくもない。
「そっか……」
 いつまでも一人で抱えずに、相談すればよかった。私の浮気も、この子の親も、何も関係ない。私が康彦に……ううん、肩を寄せ合えるパートナーの存在にしがみついていただけなんだ。
 そう思うと全てがすっきりとして、久々に顔に笑顔が戻ってくる。
「うん、そうだよね。この子の為にも、いつまでも泣いてなんかいられないよね」
 心の奥底から力が湧いてくるのを感じる。
 もう私は一人じゃない、私はこの子を守る。何があっても、この子を幸せにしてみせる。

「お母さん、私離婚する事にする」
 突然の言葉に、電話の向こうで息を飲む音が聞こえた。
「ど、どうしたの? 突然、もうすぐ子供も産まれるって言うのに」
「赤ちゃんが出来て喜んだのは私だけだったのよ。康彦は無精子症だから私が浮気をしないと子供は出来ないって、話し合いも無しに離婚調停の通知が来て、今調停中なの」
 自分でも不思議なほど穏やかに言葉が出てくる。親に報告するこの瞬間に、康彦への愛情がなくなっている事を実感するなんて……なんだか皮肉だな。
「何でそんな大事な事を今まで……。じゃぁ、その子の父親は誰なの?」
「康彦よ。私は浮気なんてしていないから」
 慌てる母に私は「またか」と眉間に皺を寄せながら、苦々しくも履き捨てた。
「そう、わかった。離婚する事も決めたのね」
 あっさりと私の言葉を受け入れる母に、気負って答えた分喜びがこみ上げてくる。
 信頼されている。その事がどれだけ自分を支えてくれるのか、これほど実感した事は無かった。
「うん」
「後で後悔だけはしないように、どんなに泥沼になっても言いたい事を全部言って離婚でも何でもしてしまいなさい。由紀に幸せになる事が一番大切なんだからね」
 母の言葉に涙腺が緩んでいく。
 鼻をすすり相槌を打つと、赤ちゃんがお腹を強く蹴飛ばした。
「あいたっ」
「どうしたの?」
 思わず出た言葉に、母が心配そうに声を掛けてくる。
「赤ちゃんがね、お腹を蹴ったの」
「そう、頑張れって応援してくれているのよ」
 母の言葉に心の中が幸せに満たされていく。
 ――赤ちゃんも一緒に応援してくれている。
 一緒に幸せになろうね。想いをこめてお腹をなでると、お腹の中で赤ちゃんがぐるりと一回転した。

 不調で終了すると思われていた離婚調停は、私が離婚を受け入れた事により大きく動き始めた。
「離婚するんですか?」
 調停員の驚きの声は忘れる事ができない。
「それでは、慰謝料の金額をつめて生きましょう」
 安堵した表情で話を進めようとする今田を、私は内心冷ややかに見つめていた。
「浮気はしていませんので、慰謝料を支払う意思はありません。逆にこちらから慰謝料、そして養育費を請求させていただきたいと考えています」
「え?」
 康彦から指定された金額を知らせようと、卓上に置かれた用紙をめくっていた今田は声を上げその動きを止めた。
「離婚はします。でもそれは、今回の事で主人へ失望し、私の中での信頼関係も崩れてしまったからです。そしてこの調停によって私は精神的にかなりのダメージを受けました。それに対する慰謝料を請求させていただきます」
「い、いや、それは……」
 狼狽する今田を制するように高橋が話し始めた。
「分かりました。松野さんがここまで否定されているのですから、私も松野さんが浮気をしていないと信じたいです。ですが、ご主人もこれは拒否されると思います。今回は離婚だけに焦点を絞り調停を行い、お子さんが生まれてからDNA鑑定をされてそこから慰謝料のお話をされてはいかがでしょうか?」
 今までは時折眉間に皺を寄せる程度で、何の為に居るのかと思っていた高橋の言葉に大きく頷いた。
「はい。そうしてください」
 このまま話を進めても、これ以上の進展は無い事は全員が分かっていただろう。
 裁判になったとしても、焦点は赤ちゃんの父親になることは間違いない。
 それに離婚が決まらないまま子供が生まれ、DNA鑑定の結果我が子だからと康彦が考えを改めても、もう私には康彦とやっていく気持ちが無いのだ。
 それならば、離婚することだけでもここで決定してしまった方がいい。
「それではご主人にも松野さんのご意思を伝えたいと思いますので、待合室でお待ちください」
 主導権を高橋に奪われ、苦虫を噛み潰したような顔をしている今田に不思議と胸がスッキリとしながらも私は部屋を後にした。
 その後呼び戻されてからは、財産分与の方法など事細かな話しを詰めていかなくてはならないが、それも子供が康彦の子供かどうかで変わってくるだろうと産まれてからの調停で決定されることになった。
 産まれるまでは籍を入れていたい気持ちと、康彦の心変わりが心配で離婚してしまいたい気持ちと混在していたが、調停終了ということで悩む間もなく離婚の書類作成に作業は移って行く。
 同じ部屋に康彦が入室し、久々に見た康彦は少しふくやかになり、実家で穏やかに過ごしている姿がうかがえた。
 一瞬どきりとしたが、それも直ぐに冷めもう康彦への心が無いことを確信させてくれた。
 離婚なんてやってしまえばあっけないもので、役所に足を運ぶのかと思いきや印紙を買いに行くだけで後は裁判所が書類を揃えてくれる。
 しかも、次の調停の約束までが記載された公正証書までもが出来上がっていた。
 あまりのあっけなさに思わず笑いがこみ上げてくる。
 隣に座っている康彦がそんな私を不思議そうに見つめていた。

 裁判所を出ると晴れやかな青空が広がっていて、全てが今の自分を、私の新しい人生の第一歩を祝福しているように思える。
 産まれながらに片親となるこの子は可哀想にも思えるが、それ以上に必ず幸せにして見せるという想いが溢れていた。
「もう、本当に大丈夫だよ」
 お腹をさすり声を掛けると、赤ちゃんが蹴り返してくる。
 それが凄く幸せで、子供の存在の大きさを実感しながら私は歩き始めた。