『元祖天才バカボン』は最初のアニメ化作品『天才バカボン』から3年後の1975年に放送された作品で、全204話と前作の全79話を遥かに凌ぐ人気シリーズ だった。前作でかなり改変された原作の世界観により近づいた作風ということでタイトルに「元祖」が冠されている。声優陣などは一部を除いて前作とほぼ同じ なのだが、作品のカラーはかなり違っており、この二つのシリーズを同じシリーズのものだ並列に置くことは難しい。

 

『元祖天 才バカボン』はナンセンスギャクに終始するという手法で、前作『天才バカボン』のドラマ性や社会性を殆ど一掃してしまった感があった。前作よりアナーキー になり、原作に近づいたとの一般的評価も高い作品である。ところが、実質の主人公であるバカボンのパパのアナーキー性がこの『元祖天才バカボン』で前作を 超えてブロー・アップされたのかというとそうとも言えない。確かにアナーキー性やナンセンスさは前作のバカボンのパパよりも強調された様に見える。しか し、それに呼応するかのようにバカボンのパパを巡る外世界もまたナンセンス化している。

 

前作の『天才バカボン』の優れた作 劇はバカボンのパパを巡る世界がいたって真面であるという設定に支えられていた。例えば警察は正義であり、富裕層は金権の力があり、教師は尊敬される存在 であり、法律や倫理は社会を構成する基盤である。そういう価値観が『天才バカボン』における世界観であった。その世界観の中でバカボンのパパが無意識のア ナーキー性を発揮するので可笑しさが出てくるのである。可笑しさはパパを巡る世界が真面であればあるほどに増してくる。

ところが、その可笑 しさも実のところ、バカボンのパパを巡る真面な世界(少なくとも我々がそう信じている日常)が実は滑稽なのではないかという感覚に引き戻される効果を『天 才バカボン』は持っている。実はバカボンのパパが言ったりやっていることが生きることの真実ではないかという感覚である。

これが『天才バカボン』という類まれなアニメ作品の最も評価に値するポイントであり、何よりもそれが現代社会に対する社会批判力でもあった。

 

対 して『元祖天才バカボン』は真面な世界が希薄になってしまった。社会はすでにナンセンスでアナーキーなものとなっている。そこにバカボンのパパのアナー キー性が発揮されたとしても、ナンセンスな世界観の中に大人しく溶け込んでしまっているのである。言い換えるなら社会批判性は前作よりも弱体化してしまっ たのである。

『天才バカボン』の可笑しさと、そこから生まれる「バカ」が実は「真面」なのではないかという逆説は『元祖天才バカボン』の世界観では機能しない。それを機能させるにはパパを巡る世界がより一層真面でないとならない。

 

例 えば『天才バカボン』における準レギュラーキャラクターの巡査、本官さんは職務に常に忠実であり、警察機構は常に正義を行使するものだと常に信じている実 直な人物として描かれている。対する『元祖天才バカボン』における本官さんは職務中にデートまがいの行為を行ったりと前作の実直で真面目な性格と程遠い。 つまり、バカボンのパパの立ち位置とそれほど乖離はしていない。本官さんが真面目で実直で警察業務に忠実であればあるほど、バカボンのパパとの葛藤は大き くなる。転じてバカボンのパパは反社会的な存在となる。何故なら『天才バカボン』の世界観では警察は常に正しい正義の行使者であるからだ。

この様にバカボンのパパのアナーキー性が十全に発揮されるためには真面な世界観が不可欠なのだ。

 

『天 才バカボン』が『元祖天才バカボン』より凡庸で倫理的に解釈されがちなのはバカボンのパパを際立たせる世界観が単に我々の日常により近いからに他ならな い。『元祖天才バカボン』がよりアナーキーに感じられてしまうのは単にパパを巡る世界自体がアナーキーでナンセンスであるというだけの理由である。社会批 判という面を考えれば『元祖天才バカボン』よりも『天才バカボン』の方が濃密で優れた計算に基づいて設計されている。『天才バカボン』は決して倫理的でも 凡庸なのではなく、むしろ「元祖」と呼ばれアナーキー性が高いと思われがちな『元祖天才バカボン』よりも強いアナーキー性とナンセンスさを持っている。

 

『元祖天才バカボン』が原作に近いなら当然、原作もこうした反社会性や社会批判力がアニメ作品『天才バカボン』より下回るのではないかという予測が生まれるがそうではない。

一般的に考えられるように『元祖天才バカボン』はアナーキー性とナンセンスさが「元祖」と冠されるほどに原作に近かったのだろうか。

 

例えば『元祖天才バカボン』の第104話『パパはママにプロポーズなのだ』を見ればそれは理解できる。

バ カ田大学の学生時代のパパが女学生のママをデートに誘い、ママが冷やかし半分で応じるのだがデートの途中で『金色夜叉』の世界に陶酔しているホームレスの 男が出現して思わぬ方向へ話が進んでしまうという物語である。勝手にお宮さんにされてしまったママに対してパパが君はダイヤモンドに目がくらんだのかとマ マを足蹴にして立ち去ろうとするのだが、原作ではママは足蹴にされたにもかかわらず咄嗟にパパに「結婚してください!」と告げる。

『元祖天 才バカボン』では足蹴にされた後、帰りの汽車の中でママがパパにどうして心を動かされたのかを説明させて愛を告白するという筋立てだった。原作におけるマ マの「結婚してください!」のセリフは全く不条理である。読者でさえ理解が難しい突拍子もない展開である。それは我々の日常では有り得ない出来事だ。対し て『元祖天才バカボン』におけるママの対応は不条理ながらも筋が通っている。

原作は漫画『天才バカボン』は不条理でナンセンスでエログロに徹しているため、その存在自体が反社会的であり社会批判性を持ち得た。何故なら読んでいる読者の周辺は真面な世界だからである。

 

『元 祖天才バカボン』では原作ほどにアナーキーに徹することが出来ないためにある程度のまともな世界への妥協が必要となってくる。ママがどうしてパパに惚れた のかを真面な世界なりの理由を付加しなければならない。これは「元祖」と呼ぶためには不必要な補足という妥協に過ぎない。

原作という漫画の存在とそれを巡る真面(だと思われている)我々の日常がワンセットになったとき作品は反社会的で社会批判としての機能が起動する。赤塚不二夫の原作の力はここにある。

 

アニメ第一作の『天才バカボン』はアニメ世界の中にこの原作が機能する構造をそっくりそのまま組み込んで見せたのである。だから、原作が期待する社会批判力はここでアニメ世界の中だけで十全に機能したのだ。

 

『天才バカボン』も『元祖天才バカボン』公共の電波に乗せるためには工夫が必要だったのことは容易に想像できる。

手塚作品をそのままアニメ化する様な単純な問題ではない。赤

塚漫画の原作そのままをアニメ化することなどその時代にとっては不可能だったからだ。

一見、原作から乖離している様に見える『天才バカボン』が実は原作に沿っており、より社会批判的であった。

対する原作に忠実たらんとした『元祖天才バカボン』は制約の中で中途半端なものとなってしまった。本来の社会批判性は弱められ、希薄となってしまったのである。

 

映像作品においては原作に表層上似ているからといって、常に原作の意義や主題を再現を可能にしているとは言えない。

来 春公開される劇場版新作映画『天才バカヴォン~蘇るフランダースの犬』が果たして『天才バカボン』になるのか『元祖天才バカボン』になるのか、あるいは全 く違った手法で描かれるのか・・・いずれにしても真のアナーキー性とナンセンスさによるバカボンのパパの存在、それによる現代社会への批判性がどれほど発 揮されるのかが作品の成否の鍵となることだけは間違いないだろう。


アナーキー性やナンセンス性は常に社会に対して批判的な視点であった。

それはクレージーキャッツの映画においてもそうであり、古くはチャップリンの喜劇にまで遡ることが出来る。
それが理解されない限り優良な喜劇は出現しにくい。
『天才バカボン』が語られるとき、今一度、1970年代に十全に発揮されたアナーキー性とナンセンス性について今一度評価されるべきではないか。
残念なことに昨今の喜劇映画にはその片鱗を見出すことは難しいのである。



執筆:永田喜嗣