窓 というものを効果的に使った映画といえば、多くの人がアルフレッド・ヒッチコック監督の1954年の作品『裏窓』を思い出すのではないだろうか。事故で足 を骨折して静養しているカメラマンジェフ(ジェームズ・スチュアート)が向かい側のアパートの一室の異変を目撃し、そこに事件を感じて観察してゆく。

や がて、ジェフの部屋を訪ねてくる恋人のリザ(グレース・ケリー)やメイドのステラ(セルマ・リッター)をその観察と推理に巻き込んでゆくというストーリー である。『裏窓』の面白さは何かと言うと、ジェフ、リザ、ステラが最初は事件に対して窓を通して目撃しているだけの傍観者であったのに、映画の最後では気 がつけば全員、事件当事者サイドに立っているというところだ。

つまり、ジェフの部屋から事件が起こっていると思われる向かいのアパートの関係には窓が介在していて両者を分断しているということだ。

向かいのアパートの窓の中は事件当事者の世界であり、ジェフの窓から手前(映画の鑑賞者の側)は事件傍観者の世界ということになっている。

向かいの部屋へリザが探りに入る場面では、ジェフやステラは傍観する窓の内側にいるので、何もできないためにハラハラする訳だ。

傍 観する側の世界は常に安全であるけれども、その向こうに存在する当事者の世界は危険極まりない。リザは安全なジェフの窓の手前の傍観の世界から単身、当事 者の世界に飛び込んでいった。そこでは、両者の間には境界が窓によって設けられている。安全な世界から危険な世界を傍観しているために、危険な世界に身を 置いているリザの立場はより大きなサスペンスとなる。

安全な場所からの傍観が危険な場所の当事者性をより大きくするのだ。更に疑惑の男ソー ワルド(レイモンド・バー)がジェフから部屋が覗かれていたことを知って、彼の部屋にやって来るところでサスペンスは最高潮に達する。その恐怖とは何か? ジェフが骨折していて動けないとか、一人であるとかいう問題ではない。

ソーワルドがジェフの部屋にやって来る事で傍観者と当事者の間に存在した境界である窓の存在の意味が無くなり、安全な場所も危険な場所も入り乱れて同化してしまう。そうした恐怖だ。

『裏窓』で興味深いのは傍観者であったジェフが当事者に巻き込まれていく過程と映画を観ている観客とのそれが、常に最初から最後までシンクロしている点である。

観客は常にジェフと共に窓の手前側にいる。ジェフと共に事件を傍観しても決してジェフを傍観したり、ジェフを置き去りにして事件当事者の世界へ入ってゆくこともない。

だから、窓という境界によって守られていたジェフが体験する恐怖はそのまま観客の恐怖となって襲ってくる。

ヒッチコックのこうした観客を徐々に巻き込んでゆく仕掛けは実に見事だ。

 

『裏 窓』における窓を使った傍観者と当事者の世界の分断という効果は全くジャンルが違う1930年の映画『西部戦線異状なし』で、既に然りげ無く使われてい る。エーリッヒ・マリア・レマルク原作のこの反戦小説を映画化したルイス・マイルストン監督は扉と窓を巧みに使って傍観者と当事者の世界を分かち、観客を 徐々に第一次世界大戦の戦場へ引き込んでゆくことに成功している。

 

『西部戦線異状なし』の冒頭は先ずは扉である。閉じられた扉の前で掃除をしている男女の会話から始まる。

この扉の内側は何もなく静かで、それはこの映画を鑑賞している観客の客席の状況と同様である。しかし、ドアのノブを磨いていた男性がドアを開けると世界は一変する。ドアの向こうでは戦場へ出征するドイツ兵たちの行進と、歓呼の声を上げる市民たちの姿がある。

 

 

 

 

ドアを出た我々の視点は現実世界を直視する事になる。兵士の行進、市民の歓声。その熱狂ぶりを目の当たりにする。男女が掃除をしていた部屋から外界へ出た我々の視点はやがてある一つの窓を通って室内へと着地する。

 

 

その部屋とは主人公ポール(リュー・エアーズ)たちが通うギムナジウム(ドイツの中高一貫学校)の教室である。教室では担任教師のカントレック教授(アーノルド・ルーシー)が学生たちに軍隊に志願するようアジっている。ここで観客は初めてポールと出会うことになる。

 

 

 

ポー ルたちはカントレック教授のドイツへの報国を訴える言葉に熱狂し、本を投げ捨て全員志願することになる。軍歌「ラインの護り」を歌いながらポールたちは教 室を出てゆく。窓の向こうには兵士たちと足並みを揃えて街頭へ出てゆくポールたちの姿が見える。そして教室には誰もいなくなる。残されたのは我々の視点だ けとなる。

 

 

先 に述べたヒッチコックの『裏窓』では主人公ジェフの傍観者の立ち位置と常に観客がシンクロしていたの対して、ここでは主人公を始めとして全員が窓の外の戦 争当事者の世界へ観客だけを残して出て行ってしまうところが違う。この時点では決してポールの視点=観客の視点ではない。窓を境にそれは傍観者(観客)と 当事者(ポール)という関係に分かられているのである。

『裏窓』と決定的に違っているのは窓を境界とする傍観者の世界と当事者の世界、つまり『西部戦線異状なし』では主人公と観客の間には時間的な流れは『裏窓』同様にシンクロしてはいるが、立ち位置は意識的にずらされているという点である。

『裏窓』を例えにするなら、観客がジェフの部屋に取り残されたままジェフだけが先に傍観者から当事者の立場へ行ってしまうかの様な・・・つまり観客のみが傍観者となってしまうという図式だ。

 

次に来る場面は兵営の門である。

映画の冒頭の扉と同じく門は閉じられている。番兵がたっているだけで、門の手前には誰もいない。いるのは我々、観客だけなのである。

 

 

やがて、それが開かれると門の向こうには志願した若者たちが営庭に入ってゆく様子が見える。兵営の門が他にもあったのかどうか、ポールたちが既に門をくぐっていたのかどうかは定かではないがポールたちが志願兵として兵営に到着した様子が兵営の門を通じて我々は目撃する。

 

 

普通に考えるならポールたちがこの兵営の門をくぐって内部へ入ってゆく様子を捉える方が表現としては自然である。1979年のリメイク版『西部戦線異状なし』ではポールたちが兵営の門をくぐって内部へ入ってゆく(それは観客の視点と共に)様に描かれていた。

しかし、マイルストンは観客である我々とポールたちとを易易とは同化させない。兵営の門を境界線に我々を傍観者として立ち残させるのである。

 

 

次に窓が登場するのはポールたちが鉄道によって戦場に運ばれて到着した場面である。この場面では観客である我々は大きなガラス窓の手前に立たされている。

窓の向こう側には到着した兵隊たちがうごめいている。もちろん、ポールたちが砲撃にさらされる場面を我々は間近で目の当たりにするのだが、やがて、その視線は元の窓の手前へと再び引き戻されてしまう。

窓の手前には人物は誰も写ってはいない。

この窓は先に我々が見たポールたちのギムナジウムの窓や兵営の門と同様である。

戦地へ志願し赴いた当事者であるポールたちは窓や門の向こうに存在し、我々観客は窓や門の手前で傍観者となる。

我々の視点は戦争を傍観しているのである。

 

 

任地で夜になると雨が降ってくる。荒れ果てた誰もいない家の屋内から開け放たれた扉の向こうに戦争が見える。雨が降りしきる中を歩いてゆく兵隊たちの姿である。

この場面を最後に戦争当事者たちの世界へ先に飛び込んでいったポールたちへの傍観は不可能となる。

この後、窓が二回登場するがその意味は全く別なものになってゆくからだ。

窓が消えた後、傍観者である我々と当事者であるポールたちの距離は急速に縮まってゆく。両者を分かつ窓が存在しないので、我々は今やポールたちと共に存在しなければならない。

 

 

塹壕の中の穴ぐらでも奥に小さな出口があるが、我々の前にはポールたち当事者と隔たりを持たせる窓はない。ポールたちは戦場におり、我々もまた戦場にいるのだ。

 

 

 

以 降は我々観客は傍観者ではなくポールの当事者としての立ち位置に完全に同化させられてしまう。もう、逃げ道となる窓はどこにも存在しない。突撃してくるフ ランス兵をドイツ軍の機関銃手がなぎ倒してゆく様も、目の前で仲間が死ぬ瞬間も、砲弾の轟音で頭がおかしくなる様子も今や傍観は許されない。

もう、傍観することは不可能になったのだ。

戦争の渦中にいるポールの当事者としての立場と我々観客は完全に同化してしまったのだ。

 

『裏窓』で言えばソーワルドがジェフの部屋に侵入して来る恐怖のクライマックスの瞬間である。その瞬間が当に連続的に延々と眼前に展開して行くのだ。負傷して野戦病院に入院しても、そこで起こる苦しい現実を傍観することはできない。

今度は野戦病院の窓の内側に我々は負傷兵ポールたちと共に閉じ込められてしまうからだ。

 

 

ここでは病棟の表の廊下にある窓が登場する。

窓は夜も昼も固く閉ざされている。我々はポールたち負傷兵と一緒にいるのだから、野戦病院の窓から中を覗き込むことはない。病院の外観も示されなければ、病院の外部からの視線もない。

 

 

 

ここに到ると窓は我々観客に傍観の立場を一切与えない。傍観者であった我々は完全に当時者のポールと同化してしまったのだから、もう境界として窓は機能することはない。

そして、映画の終盤近く、突然、窓が出現する。それは映画の冒頭の方で登場したポールたちのギムナジウムの教室の窓である。

戦地から休暇で帰郷してきたポールは学校のこの窓の前で足を止める。

カントレック教授から志願せよとアジられて本を投げ捨て「ラインの護り」を歌いながら出て行ったあの教室である。

我々観客が境界を越えてポールたちが戦争の世界の当事者に自らなってゆくのを傍観していたあの窓である。

 

 

今までポールたちと同化していた我々の立場は突然、最初の視点に引き戻される。我々は教室の中にいる。そしてポールは窓の外にいるのだ。

我々はここで気づく。我々がポールたちを安全な場所から傍観していたことを。

それは『裏窓』のジェフが自室の窓の外を傍観していた視点と同じなのだ。

しかし、ここに来て我々はもう傍観する術がない。窓の外に立っているのは戦場を共に体験してきたポールその人であるのだから。

 

我々は自分たちが傍観者であったことに気づかされるのだ。

この後、傍観者と当事者を分かつ機能としての窓はもう登場しない。

もう傍観者と当事者の間の境界は例え戦場から離れて帰郷しようとも、もうどこにも存在しないからである。

窓が持つ意味はもう失われてしまったのである。

 

そして、それをさらに強調するかのように最後の窓が現れる。映画のラストに登場する窓は、戦場に戻ったポールが潜む塹壕の小さな銃眼である。

 

 

ここで窓はポール存在している場所と、その向こうの外の世界の双方から我々は見ることになる。どちらの視点に立っても、我々にはもう、傍観者と当事者を隔てる窓の存在は意味がない。既にこの窓の意味は失われてしまっているのである。

 

銃眼から外を覗くポールの視界に一匹の蝶が入ってくる。昆虫採集が趣味だったポールは蝶に懐かしさを憶え、つい心が和む。彼は銃眼から手を伸ばして蝶に触れようとする。しかし、小さな銃眼からでは手は届かない。

 

 

 

彼は銃眼の上の塹壕のから身を乗り出して手を伸ばし、蝶を手に取ろうとする。次の瞬間、彼はフランス軍の狙撃兵が放った銃弾によって射殺される。

 

 

 

 

 

もう、窓の間には傍観も当事者性も、安全も危険も存在しない。撃たれたポールの伸びた手が力なく息絶える場面でこの映画は終幕となる。冒頭に登場した部屋の扉やギムナジウムの窓へ再び帰ることなく、突き放したままで映画は終わる。

『裏窓』では事件が解決したあと、再び傍観の舞台であったジェフの窓に我々は帰ることが出来た。だが、『西部戦線異状なし』ではそれは許されることなくエンドマークとなるのである。

ルイス・マイルストン監督のこうした然りげ無い技法と設計はレマルクの原作を超えて我々に原作の意義を伝えることに一役買っている。

時代が進み技術が如何様に進んでいようとも1979年のリメイク版『西部戦線異状なし』がマイルストン版を超えられないのはこうした緻密な設計が希薄だったからだ。

いや、リメイク版に留まらず、第一次世界大戦以降の近代戦争を描いた映画の中でも古典的なマイルストンの『西部戦線異状なし』が未だに輝きを失わないのはこうした理由からだ。

それはマイルストンが無声映画時代に映画技法を学んだ人物であり、トーキー黎明期の1930年にこの映画を撮った際、映像のみによって映画を語らせるという無声映画時代の思想が健在だったためなのかもしれない。

 

残 念なことにマイルストンは実質のデビュー作である『西部戦線異状なし』以降はこの様な凝った技法を試みなくなる。戦後、同じレマルクの原作で主役にイング リット・バーグマンとシャルル・ボワイエを据えた『凱旋門』を撮ったが『西部戦線異常なし』程の輝きをそこに見出すことは出来なかった。

 

『西部戦線異状なし』観客に戦争を傍観させないために予め傍観させておいて、その後その手を封じてゆくという手腕には脱帽の他ない。それはあたかもサスペンス劇の設計のようでもあり、同時にヒッチコックの『裏窓』にも通じる洗練された映画の話術なのである。



執筆:永田喜嗣



付記:マイルストンの構造は既に1930年代の戦争では傍観と当事者を分かつことが既に出来なくなってきた時代でもあった。
1940年代に入ると戦争は総力戦となり、戦地も銃後の隔たりの意味さえなくしてしまった。

日本の本土決戦は当に近代総力戦で窓を失った民族という集団であるにほかならなかったからだ。

全ては滅亡へ・・・自殺的滅亡へ・・・戦争とは勝利か敗北かでななく、自殺と滅亡のぶつかり合いなのであり、『西部戦線異状無し』という映画ははそれを今日まで希望と無知という名の窓ごしでじっと我々を傍観しているのである。