先日、「キンシオ論」で丘沢静也氏の著書『マンネリズムのすすめ』の話が出た。
読書記録(wordのファイルに記載)を見ると、平成22年年3月15日に読み終えていたようだ。
今日のブログは、その読書記録から抜粋をするが、今は手元に本そのものがないので、どの部分が本からの引用で、どこが自分の感想だったのか分からない。この本は、ブックオフで買って、ブックオフに売ったんだと思う。
(1)マンネリズムについて
ルネサンス後期の美術「マニエリスム」は、頂点を極め、今や完成されたと考えられた芸術様式をいうが、模倣表現から型にはまった生気の欠けた作品が多いとして「マンネリズム」という蔑称になった。
優れたマンネリズムは繰り返しに強い。作品の腰が据わっているのだ。繰り返しても飽きない。むしろ心地よく、病みつきになる。
例えば、バッハの作品は繰り返しに強い。バッハは現代とは異質の文化に住んでいた。マンネリズムを恐れず、愛した。記録を残すよりは、その場を凌ぐことを優先した。自己表現の欲求やら、作品の自立とか独創性にあまり悩まなかった。悩んだからといって独創が生まれるわけではない。
現代はマンネリズムに市民権がないが、マンネリズムを忌み嫌う必要はない。
私たちの体と日々の暮らしは繰り返しが基本である。変革や創造や個性は起伏があっても一面的なものにすぎない。人間を支配している穏やかな法則はむしろマンネリズムの中にある。マンネリズムは小さな永遠となって、崩れやすい私を支える。諸行無常、万物流転の世の中だからこそ、マンネリズムは貴重なのである。
人生においてはマンネリズムの中に心地よさがある。
芸術も同様で、いいマンネリズムの型や様式の作品であれば、見ているほうは無駄なエネルギーを使わず、その繰り返しを心地よく感じる。マンネリズムに浸ることができる。作る側も無駄な力を使わずに、燃え尽きることがない。
マンネリズムは思想というナイーブな段階を卒業して単純で確実な技術となっているのである。マンネリズムは思想ではない。技術(ライフスタイル、芸術様式)である。
(2)ヒトラーは『わが闘争』の中で、「ユダヤ人には創造性がない。他文化を洗練することしかできない」と述べている。ヴィトゲンシュタインは二十世紀人らしく、独創性コンプレックスがあった。だが伝統的に芸術は、創造ではなく模倣が基本だから、ユダヤ人には優れた芸術家が多いとも言える。
(3)「型にとらわれない自由な発想」というセリフは、子どもの頃から耳にタコができるくらい聞かされてきた。一回性や独自性をめざすパフォーマンス・アートは、偶然に身をゆだね、型を無視した結果、ほとんどどれもが判で押したように退屈で、砂をかむような代物だ。20世紀のアヴァンギャルドは、破壊と創造を旗印にして、自由な発想を試みたが、その結果がどの程度のものであったか。
「想像カを羽ばたかせよう」と唱える人にかぎって、えてして想像力が平板で貧しい。「人間はワシのようには飛べない。せいぜいニワトリ程度」と言ったのは、たしかペシミストの作家コンラッドである。個人の独創とか人間の想像力は、自由に羽ばたいたときは、たかが知れている。これは、マンネリズムを毛嫌いした20世紀の、大きな教訓ではないだろうか。
アンドルー・ハッカーによると現代では、すべての人が「自分はなにがしかの意味ある存在であり、他の人とはちがった価値をもつ個性だ」と信じこまされている。だが、巨大な現代社会では、全員がなにがしかの人物として目立つことはできない。ほとんどの人は「誰でもいい者」として扱われざるをえない。にもかかわらず、「何者か」であれと奨励されるなら、多くの人が不満をもつようになるという。
とすればマンネリズムは、「誰でもいい者」の目印となりやすいから、怖がられるのだ。「何者か」であるためには、差異や新しさがほしい。こうしてマンネリズム脱出が、至上命題となる。強迫観念となる。
「何者か」であるための解決策として、山崎正和は、広い世間で下手な自己実現をめざすよりは、おたがいに顔の見える柔らかい小世界での自己表現を提案している。だが自己表現もまた、下手をすると、マンネリズム脱出ごっこの暗闘の場となりかねない。
そこで私は、マンネリズムにひたることを提案したい。マンネリズムの醍醐味が体でわかるようになれば、しめたものだ。