私人の所有してると思われる空間の中に、

         いろんな性質をもった感情物質たちが住んでる。


         その多様な感情物質たちは、よく知ってる感情物質であったり、

         未知の感情物質であったりする。


         これらは、整理されてたり、未整理であったり、

         独自の意思のようなものを持ってたり、

         あるいは気まぐれに混沌としながらさ迷ってる。


         私人所有と思ってる体は、


         
生きてる限り、

         生物細胞として、

         計画的に一生という時空を過ごす。


         生物細胞の一生なのか、

         私人と思ってる時間空間の一生なのか、

         戸惑うところもあるが、

         その答えは先送りにする。

       
         行動の軌跡がある。

         これを言葉で辿ってゆくと、感情が分かるという。

         記録にして、それを分析し解読する作業も必要である。


         行動の軌跡、言葉、感情、この3つの関係が、

         三角比の証明のような法則となってるらしい。

         らしいという確立は半分半分くらいか?



         旅したときの軌跡を思い出して書くことによって、

         初めてそのときの感情を知り、行動が分かるという。


         
100%分かるのではなく、

         ぼんやりしてたのが具体的に見えてくること、

         隠れている私人の感情が分かってくるらしい。


         感情は、言葉、文字としてこの世に出現する神のようでもある。


         これはあくまで個人の私人の問題解決のヒントのような思考であり、

         万人に共通のものでもないと思う。

         

         実際の感情も行動もなく空想だけで書いてると、

         現実の生活はどんな感情が生まれ、

         どんな行動になるんだろう?

         つまり、三島由紀夫さんのような作家たちである。


          
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   蘭たちが、なぜ樹上に住むようになったのか?

         といえば、蘭たちが地球にやってきたとき、

         既に地上は多くの植物で満ち、住む場所がなかった。

         生きてゆける環境は、年中暖かく雨が多い南国の

         幹の上しかなかった。

         花の美しさで人を魅了させ、人に育てられ世界に進出してる。
           

         自分の生きる目的のようなところの発見、

         その早い、遅いの差はあるが、

         毎年のリフレインのような旅で、

         少しづつではあるが見えてきた境地である。

       
         松尾芭蕉の「奥の細道」を辿ると、

         道程で点々と俳句が描写されてる。

         三角比ではないが、ここから芭蕉さんの旅心、そして感情を察する

         ことができる

         私人も、旅の経路と日記があれば、あるいは写真でもいい、

         こころの内を発見するにちがいない。

         そこにあるのに見えなかったものが見えてくるにちがいない。
         

         長年の国家の歴史たち、あるいは地方の歴史たちが、

         呪いの繰り返し、呪いの反復であるとしたら、

         どんなことになるんだろう?