地域社会組織、集団と私の関係は水と油のようなものという
その原因、理由が分からないで40年以上過ぎた。
プーケットから帰宅したら、なんとなくそれが分かった。
旅ブログとは関係ないので、特に書く必要はないと思ったが、
日本社会と直接、間接的に関係してきたこれまでの事件の真相を少し書いてみる。
時期がくれば摂理が、自然に紐解けるという不思議さも感じてもいる。
明治後半生まれの祖父は、国家の重鎮で戦争には行かなかった。
おそらく、リンゴ園でリンゴの剪定や薬剤散布しながら、
ずっと国家の戦争やヨーロッパ諸国の戦争の行く末を観てた。
私は、幼少時代から同世代が行ってる幼稚園にも行かず、
ずっと祖父と一緒で、祖父の話をずっと聞いて過ごした。
戦争時の話は一度も聞いたことがなかった。
祖父は、戦争が終わり、戦後の国の復興事業、道路河川など整備事業、
食料生産事業など、多くの国政による建設事業に関係してきた。
それと時を平行させて、地元の大地主封建体制の解体も行っていた。
大地主は、代々、寺院、神社の代表、幹部役員であり、
水田、山林、畑など多くを所有し、代々多くの小作人を従えていた。
この、大地主ファミリー組織を、GHQが、戦車、大砲を持参し、
鉄砲を持った軍隊を引き連れて解体したのではなかった。
私の家も先祖代々、寺社のような土地財産の構造であった。
戦後の食料増産事業、道路などインフラ建設事業に合わせたのかもしれない。
私の祖父が50歳前後ごろ、国の大きな刀を所有して、
長年の伝統封建社会を解体し、戦後の社会に変化させていった。
ここまでは、いい。
その次が問題になった。
祖父たちが、戦後の農地改革はじめ、
封建社会を解体し民主主義社会へ変化させていったが、
その解体責任、変化責任が、私の両親にかかってきた。
”親の因果が子に報う”
という諺の法則である。
町内、財産集落に入れないとなった。
もちろん、見方してくれる人々も大勢いる。
町内で、町で、組織での衝突混乱を避けるため、
両親は私を引き連れて、祖父母と別居生活になった。
疎開のような状況である。
今から思うと、この生活が50年以上続いてる。
戦後のGHQ政策による変化の原因、
政策に従った親の因果が、孫まで代々末代まで呪ってやる、
そんな感じである。
私の人生も同様に、地元の町内や集落組織から外され、
地元の学校から外され今日に至ってる。
事情を知ってる国立岩手大学は、私を保護してくれた理由も分かる。
もちろん、全員ではないが、
地域の封建伝統社会を解体されて、
伝統や権力を失った人々が、
私の祖父の戦後の民主主義改革を恨んで、恨んでこういう事態になってる。
これでゆくと、私の先祖から継承してきた結婚は、
マッカーサー占領政策により禁止、
あるいは廃止、
結婚認めない、させない、
という構造になってる。
まだ、多くの事が中間処理状態であり、
先行きは未定であり、
まだまだ長い歳月を必要とすることも知ってる。

プーケット パトンビーチの黄昏時

やがて、街灯にビーチが照らされるとこんな色彩の風景になった。
プーケットで暮らすには夏が暑いので大変かもしれない。