今回の旅の小さなヒントはいくつかあった。

                 どこまで書いてみようか?

                 書けるか?

                 ということもあるが、これまで書いてるのは、まだ半分くらいであるような気がする。

                 
                 私は時々一人で散歩に出かける。

                 前回は、東京のある大学の構内であった。

                 生協の本屋に入って暫く書棚を見てたら、

                 ”時間と空間”というタイトルが目に飛び込んできた。

                 価格は4000円を超える分厚い本である。

                 購入しようか?

                 少し迷ったが、自分の思考で目線で”時間と空間”を書いてみようと、

                 ふと思った。

                 書けるかどうかは分からない。

                 自分が自分に設定したハードルは意外と、いやかなり高いだろう。

                 そういうこともある。


                 私にとってタイ国のバンコクは、やはり想定にない空間であった。

                 ほぼ、100%訪れることのない地でもあった。

                 やはり、いつものように、どうにかなるだろうと思って行くことを決めた。


                 ここで、三島さんの”暁の寺”という作品を初めて知った。

                 読んでるうちに、

                 三島由紀夫さんの、

                 小説思考現実思考の、2つの認識空間における悩みを知った。


                 何十冊もの小説作品があった。

                 1日の大半を、机の上の原稿用紙に向かって書いてる、

                 という小説思考である。

                 現実の時間と現実の思考は、その余りの時間ということになる。

                 人生の大部分を、学習と小説を書くための空想で過ごした・・・

                 
                 三島さんは、次のように語ってる。

                 「私にとって書くことの根源的衝動は、いつもこの二種の現実の対立と緊張

                 から生まれてくる。」


            

                 ”暁の寺”が完成すると、現実との対立と緊張バランスが失われ、

                 これまで支えていた貴重な現実記憶が紙屑になった。

                 「実に、実に、実に不快である。」

                 

                 

                 
                 もう少し推理してみると、どんな現実と対立させてたんだろう?

                 三島さんに限らず、芸術的完成作品は自分の所有してる大事なものと、

                 交換、代償、犠牲などで出来てる。

                 あたりまえのことだが、芸術作品は売買で完成される・・・

                 と。


                 結婚した、子供が出来た。

                 子供は私の創造物である。

                 私は子供の為に犠牲になって生きよう、と決心して父親になれるかどうか。


                 もし、芸術作品が自分の子供のように感じたら、

                 不快な気持ちにならなかった?

                 
                 アーラヤ識という、0がいくつ並ぶか知れない細かな根源物質と、

                 芸術的作品を結びつける関係を暫く空想してみた。


                 すると、この世に嫌気の気持ちが少しみつかった。

                 この嫌気を主人公にしてみたら・・・


                 難しくて理解できない、というより、

                 生きてることは、

                 多様な多くの感情物質たちと共存しあって、

                 心の中の自分の空間にある秩序を形成するか、


                 時には争って破壊するか、

                 そういう自由自在の意思のプロセスなんだろう。 


                 タンパク物質である生命体にとって、

                 芸術活動における思考的限界は苦しく、

                 その時が寿命なんだろう。


                 芸術的特殊な思考を使わないで、

                 普通に暮らしてる集合生物たちにも、

                 それはそれでオートマチックな、

                 不思議な営みが隠されてる。