銀行に行ったら、こんな素敵なポスターが。

こういう「見どころ」がわかっていれば、やって来た新札を愛でる時にうんと楽しめておトク😆思わず立ち止まってじっくり読んでしまったが、結構ボリューミーなコンテンツで時間がなくなってしまい、撮影させて頂いた。


私個人、この中で推しは、谷啓札こと、渋沢栄一デザインの新一万円札だ。



※コチラは、伝説のコメディアン、谷啓様

個人的には、絶対似てると思う


以前仕事で八幡製鐵所のガイドをしていたので、その資金調達の根幹を担った渋沢栄一翁は超スーパースゴい人として際立って見える。もちろん津田梅子さんや北里柴三郎さんのスゴさも言わずもがな、の上で。


1897年。官営八幡製鉄所、着工。操業には莫大な量の石炭が必要だ。そのためには市内の若松港の整備が必須であった。県内最大の採炭地、筑豊炭田の石炭を運び込むには若松港に巨大な船を通さねばならなかったからである。


その若松港の改築のため創立されたのが若松築港株式会社。しかし創業まもなく資金繰りに喘ぎ、国家プロジェクトである富国強兵策(日清戦争後、重工業にチカラを入れ、その中心を担う鉄鋼を輸入に頼らず自国で生産し、国力をつけようという気運が高まった。)のメイン、八幡製鉄所の操業が暗礁に乗り上げようとしていた。


そこで活躍するのが渋沢栄一である。国家経済界の重鎮となっていた渋沢は、若松築港株式会社の存在意義を大いに認め、自らが株主、相談役となって全力で資金集めに奔走した。


製鐵所誘致の立役者、安川敬一郎 は、若松築港株式会社2代目社長となり、療養のため相談役を辞した渋沢にお礼の品を贈るが、そのお礼状の内容には何度読んでも驚かされる。


北九州の誉れ、元黒田藩士の安川敬一郎


 渋沢は、すでに超大物財界人であり、若松港の改築にあたっては目覚ましい活躍を見せたのにもかかわらず、「本件に関して自分は大した業績もないのにこんな立派な物を頂きまして」といった趣旨の手紙を返している。


素晴らしくないですか、渋沢栄一さん。ああ、早く私の元へ!


あ、もちろん引き続き、


諭吉さんも、いらっしゃーい😆