秘密ですが、いろいろあって、一時帰国をしています。
日本にいる人には、家族と彼以外、誰にも伝えていない。
本当は、すでに2週間近く日本にいる。
理由は、言えない。だから、誰にも言ってない。まあ、次の日曜にはカナダに戻る。
近くの人にはこの2週間を、きっと言わない。
今日、オットーネーベル展に行った。
絵を見るのが楽になったので、気楽に楽しめた。
クレーやカンディンスキーも見た。
前ならきっとクレーが好きって言っていたけれど、今はネーベルが好きかもしれない。
それは、世界の新しい表し方を追求すること、それが今の私に欲しい姿勢だからというのがある。
自分の精神世界にあまり興味がなくなってきているから。
最近、自分の中身に限界を感じていて、うすっぺらのぺらぺらになっています。
自分は特別って思えていた頃が懐かしくて、吐き気がするほどに羨ましくて、世界にビビり倒してたのに、私が最強って思えていただろうことが信じられない。
私はいつのまにか歳をとって、23なんていう一人前の人間として成立してしまうくらいの見た目になってしまった。
若さという免罪符を失いつつある。それをすごく感じる。
焦りは無い、わけではない。
もう昔ほど、どうにかなる、なんて言えなくなってしまった。
現実を直視しないといけない状況になりつつあって、そうなったがゆえに怖くて、大口叩けなくて、私は結局普通に死んじゃうのかなあなんて普通のこと思っちゃったりして。
だけど、やっぱり詩人になりたいよ、私は。
言葉を生業にしたい。
うすっぺらのぺらぺら、だけど。
出してばっかりで情報や作品を入れることがなかったから、今すでに自分の引き出しが空っぽになりつつある。
使い古しの言葉と使い古しの考えと感覚、こう感じたいっていう欲望と強制。
きつい。
もうだめだ、ってちょっと思った。
でも新しい表し方の追求なら、まだできる。そこはほとんど試してない。
ネーベルやカンディンスキーが見た世界、ほんとに面白かった。
あの人たちは現実をどう見てたんだろう。どう見えてたんだろう。どう見ようとしてたんだろう。
わずか10年の間に描くスタイルがめちゃくちゃに変化していて、同じ歳でも違う描き方を何回も試して。
私はピカソが1番好きなのだけれど、彼の好きなところは、息をするように作品をつくっていたこと。
いろんな方法を面白いと思った瞬間から試していたこと。
同じ人がつくったとは思えないようなスタイルをいくつも持って、画家だからって絵だけを描いてたわけでもない。
死ぬ何年前とかに急にお皿とかつくり始めちゃうような。
好きだ。そういう姿勢が好きだ。
でも、私は他を入れると自分がいなくなっちゃうような気がして怖くて、何も取り入れてこなかったんだよなあ。
音楽を聴かない音楽家はいないし、映画を観ない映画監督はいない。コピーを読まないコピーライターだってきっといない。
自分の携わる分野を知らない奴はプロにはなれない。と、思う。
研究、触発、それが大事なことだ。
あと、系譜も知るべきだ、どんな人がどんな挑戦をしてきたか。その分野における新しいものが何かをわかるためには、古いものを知る必要がある。
で、今の流行りも知るべきだ。流れを切り開きたいなら。
詩人になりたい、詩を書きたいと思うなら、詩を知ってなきゃな。
私は一応、詩を書くらしいから、な。詩だって自覚しないと、こうは思えないんだけど。
ありがたいことに、そこまで言葉は肉体的な若さを必要としない。まだ間に合うかなあ。
生きようっと。