自由とは何だろうか?と考えることがある。とりあえず、手もとにある辞書でその意味を調べてみることにした。『広辞苑』では、自由を次の如く定義していた。「一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。」
何かをするのに責任をもつかどうかは別として、自由とは束縛や強制の無い状態と言ってよいと思うが、やはり、自由には前提条件が必要であり、それの無い「自由」は苦痛になると言える。
私は、大学受験のために浪人をした経験がある。毎日の朝起きてからの予定を立てていて、それらを機械のように遂行していた。たしか、一日十時間以上は勉強していたと思う。大変に辛い日々で、物思いに耽る余裕もなく、受験直前期などは不安で眠れないことさえあった。私は受験に束縛され、学習計画にその実行を強制されていた。
けれども、今思うと、そのような日々は非常に充実していたと感じられる。とても幸せな時代だったと思える。一週間に一度くらいか、気分転換として友達と一緒に食事をしたり、好きな映画を観たりしたが、それがこの上無く幸せな時間に感じられた。短い時間のなかで、自由を思いっきり享受できていたように思う。あんなに解放的な気分を味わったことは、その後ほとんどない。
自由を感じるためには、束縛や強制が必要である。これらの無い「自由」は気持ちの良い自由ではないというか、苦痛な暇の状態になってしまうような気がする。
大学時代の私はとても「自由」であった。遊びたければいつでも遊べた。何の束縛も強制もなかった。けれども、そのうちに、遊びからあまり面白さを感じられなくなり、そして、そんな日常が続くにつれて、日々がつまらなく感じるようになり、何のために大学に来たのか?、こんな日々のためにあんなに勉強に費やした時間が無駄だった、浪人時代のほうが幸せだった、などと思い始めた。「自由」に苦しんでいた。大学で新たな目標を見付けられなかったという点も原因の一つであろうが、とにかく「自由」な大学時代がたいへんに辛かった。
畢竟、自由を謳歌したり、心から楽しむためには、日常の束縛や強制などが必要になると言える。「自由」すぎると、かえって、自由の有り難み、そして、自由の意味や感覚までもが分からなくなると言ってもいい。自由のエレメントには日常のストレスさえ含まれると言える。それは、毎日、残業続きでストレスが溜まってしまった後にするレジャーが思いっきり楽しく、自由を身体中で体感できることが物語っている。やはり、自由を享受するには前提条件が必要なようだ。
