昭和恐慌で高橋是清蔵相が行ったリフレ政策についてお話していきますが、まずは昭和恐慌が起きた背景について見ていきます。
 
昭和恐慌は1929年の10月にアメリカで世界大恐慌が起きていたにも関わらず、当時の民政党濱口雄幸内閣とその蔵相で井上準之助が金本位制回帰を行ったために起きてしまった深刻なデフレ不況です。
 
日本は第1次世界大戦中に金本位制を一時脱退していましたが、戦後世界の主要国がどんどん金本位制に復帰していくなかで日本だけが金解禁を行わないままでした。このことが為替相場の安定化を求める内外から金本位制復帰要望があがっていました。濱口内閣で復帰を決めたのですが、そのときに金本位制を脱退した第1次世界大戦当時より上昇した物価や円安になった為替レートの水準に合わせた新平価ではなく、脱退時のレートである旧平価で戻ってしまいました。
 
当時の日本にとって最大の輸出相手国だったアメリカは既に大恐慌で激しく消費が落ち込んでおり、にも関わらず円高レートで金本位制に復帰したために極度の輸出不振に陥りました。それによって金の流出に歯止めが掛からず、マネーの増刷ができないためにいっそうのデフレを招くことになります。日本の金解禁を見込んだ投機筋がドル売り・円買いを進めたこともそれに滑車をかけました。金解禁後のわずか2か月で金兌換ができる正貨が約1億5,000万円、そして1930年を通じて2億8,800万円も国外へ出ていったのです。
 
この影響で生糸、鉄鋼、農産物の価格が下落し、株価も暴落します。それによって800社以上の会社が倒産し、街に失業者が溢れかえります。農村も壊滅的打撃を受け、多くの人が飢餓に苦しんだり娘が女衒に身売りされるような事態となりました。
 
このことは既に多くの方々が幾たびとなく述べてこられたことです。
 
 
金解禁が昭和恐慌の直接的引き金になったことは違いないのですが、その前の時点で既に当時の日本はデフレの素地が形成されていました。第1次世界大戦による特需の反動で戦後日本は生産設備が過剰気味になり、企業はそれに苦しめられます。にも関わらず「日本はすぐに金本位制に復帰するだろう」という見込みがあって通貨の為替レートは高いままでした。そのこともあって輸出<輸入の状態が続きます。
 
通貨の供給量は第一次世界大戦特需で日本は多くの金を獲得し、通貨の供給量をうんと増やして以来そのまま維持してきました。本来金本位制ですと輸出<輸入になったら金の量が減りますので通貨の量も減りますが、日本は金本位制脱退後に貿易収支が赤字になってもそれを減らさないまま1910年代を送ってきています。1920年代にいよいよ金本位制復帰の議論が活発化し、保有している金の量に合わせて通貨の量の減らす動きが出てきました。それも関東大震災や昭和金融恐慌もあってなかなか進みませんでしたが、1929年に入ってから歳出削減による緊縮財政と金融引き締めで急激に通貨の供給量を減らし始めます。急激なデフレ進行で物価や賃金が下落していきました。
 
金融引き締めは企業の投資も滞らせます。重化学工業の資本家たちは巨額の資金を投じ新たなる事業の発展を望んでいたのですが、思うが儘に進めません。井上財政のときに投資がガタンと落ち込んでいます。
 
そしてさらに濱口・井上らはデフレによって資源や食糧の輸入価格が下がり、人件費も下がって輸出競争力が増すと考えていました。また濱口・井上は清算主義的なものの考えを持っており、緊縮財政で競争力が低い企業を淘汰させ、勝ち抜いた少数の優良企業のみ残し産業界の整理統合と構造改革を目指していたようです。篩にかけられ落とされそうな中小企業は経営に苦しむことになります。
 
このような井上の考えに対し高橋是清は「財政を拡張し、金利を下げ、財政金融を緩やかに運営して、円を安くすることこそ大切で、金本位制は二の次だ」だと述べ、井上と論戦します。あと石橋湛山や高橋亀吉、各務鎌吉らのように金本位制復帰に賛成しつつも、旧平価ではなくレートを下げた新平価で金解禁をすべきだと主張したグループもいました。
 
濱口・井上は旧平価で金解禁を決行したものの、この大きな経済失策により、日本経済は激しい需要ショックを受け、生産活動が停止し、マネーの供給や流動が失われました。若槻礼次郎内閣が濱口内閣を継ぎましたが、政友会に政権交代し犬養毅内閣が発足。その蔵相として高橋是清が就任します。次回からいよいよ高橋財政です。
 
 
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