点と線の歴史 | メタメタの日

 サポー『数学のあけぼの ―ギリシアの数学と哲学の源流を探る』(1976年)を読んでいたら,「前5世紀の幾何学では,線分は(2つの文字をその両端に当てたユークリッドの場合と違って),1つの文字で表わされていたことが知られている。」という一節があった。(74頁)



 古代ギリシアでも,ユークリッド以前は(ユークリッドから,ということではないが),江戸時代の和算と同じように,線分そのものに名前を付けていたようだ。つまり,ギリシアでも,面→線までは認識したが,線から先に点を認識するまでは至らなかった時代があったようだ。



では,ギリシアが「大きさのない点」というフィクション(虚構)の認識に進んだきっかけは何だったのかと気になる。



上のサポーの一節は,ゼノンの第4逆説(競技場の逆説)についての解説の中で出てくる。等速直線運動をしている物体(「物体A」というと「物体の長さA」も表わし,線分Dと線分Eとの和(D+E)はDEと書かれた)が,止まっている物体の2単位を通過する同じ持続時間に,反対方向から同じ速さで等速直線運動をしてくる物体の4単位を通過するから,「時間の半分は,その倍に等しい」とゼノンは議論した,と論敵アリストテレスが伝えている(『自然学』岩波版全集第3259頁)わけだが,これだけ読むと,ゼノンは相対速度を理解していなかったとしか思えなかった。



ところがサポーによれば,ゼノンは,2単位の長さの線分に含まれる点の集まりと4単位の長さの線分に含まれる点の集まりが「同等」になること(2500年後にカントールが主張したことを予見する形で)から,<「運動」,「時間」,「空間」の概念が考えられぬことであることを立証しようとした>。(78頁)



ユークリッドの体系(公理,公準の定式化)の確立に,パルメニデス―ゼノンらエレア派の主張への対抗があったことなどをサポーは提起し(1960年代),彼の業績は数学史の「サポー革命」とも称されていることは,『数学のあけぼの』の訳者の一人の村田全さんの『数学史散策』(1974年)で知っていたが,この『数学史散策』全文がネットで読めることを最近知った。
http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Murata/ramble-hm.pdf



 「大きさのない点」というフィクションの確立にも,エレア派の議論がからんでいるのではなかろうか。