読み始めてから、ずいぶん長い間フィクションを読んでいなかったことに気が付いた。
誰が、いつ、どこでしたナニは、けっきょくどういう意味と限界があることだったのか、というようなことばかりを気にするものばかりを読んでいた。あるいは、そういう読み方が可能で意味があるものばかりをそういうことを気にしながら読んでいた、ということに気が付いた。フィクションの読み方を忘れていた‥‥。
主人公の「僕」は中学2年生、学校でいじめを受けている、ということは読む前から知っていた。でも、この小説で書かれているのが、西暦でいうと何年で、日本のどこの地域のことなのかは分からない。フィクションでは、そういうことを詮索しても作品の根幹には関わらない枝葉のことでしかないということを確認しながら読んでいくと、一九九九年のノストラダムスの予言の年の八年前らしいということが分かっていく。いじめで自殺した中学生のことがテレビで取り上げられたりしていて、そういう時代設定ということがわかっていく。つまり、著者の川上未映子さん自身が中学生だった時代のことを書いているのだ、ということは、後で亀山郁夫さんの書評で知った。亀山さんの評だから、もちろん、ドストエフスキーとの比較が出てきて、ドストエフスキーと並べて論ずべき作品だと私も思ったし、亀山さんに評を依頼した雑誌編集者もそう思ったのだろう。
いじめは、昔からあった。『源氏物語』では、桐壷があまたの女御更衣からいじめられたし、大日本帝国陸海軍では古参兵による新兵のしごきがあった。では、私の小中学生時代の一九五〇、六〇年代の子ども社会にいじめはあったのだろうか。私自身の直接の見聞の限りでは具体的には思い浮かばない。(私は、中学生の時学級委員として「不良」たちから悲惨な目にあい、自殺すら考えたが、あれは「いじめ」という概念に分類されるものではなかった。)
戦前、戦後の昭和の子ども社会でのいじめのイメージは、一人の腕白少年が周りのこどもたちを次々に泣かすという「独裁者型」だった。七〇年代以降のいじめは、多数が一人を標的にしていじめるというものに変わった。昔は「いじめっ子」がいたが、七〇年代以降は「いじめられっ子」がいる。この変化を私は「いじめの民主化」(多数決のいじめ)と呼んだが、『ヘヴン』で書かれている九〇年代のいじめは、構図は「多数決」でありながら、別の要素も入ってきているようだ。しかし、九〇年代以降のいじめを何と呼んだらいいのか、分からない。
もしもこの小説で著者インタビューをするとなると、最近のいじめは大変なんですね、取材はどのくらいされたんですか、などというマヌケな質問しかできそうもなく、困ったな、と思いながら読み進めていった。
「僕」は、同じクラスで苛められている「コジマ」という女の子から「わたしたちは仲間です」という手紙をもらい、淡いデートを重ねるようになる。「僕」の両親もコジマの両親も離婚をしていた。再婚した母親と暮らすコジマは、貧乏な暮しをしている実父を忘れないために汚いなりをしていて、それが苛めの標的とされている。「僕」は斜視が標的とされている。コジマは「僕」の目が好きだと言う。「僕」への苛めはエスカレートし、サッカーボール代わりに蹴られて、鼻を骨折する。「僕」を介抱したコジマは言う。
「君もわたしも、弱いからされるままになってるんじゃないんだよ。あいつらの言いなりになってただ従ってるわけじゃないの。最初はそうだったかもしれないけれど、わたしたちはただ従ってるだけじゃないんだよ。受け入れてるのよ。自分たちの目のまえでいったいなにが起こってるのか、それをきちんと理解して、わたしたちはそれを受け入れてるんだよ。(略)この弱さはとても意味のある弱さだもの。(略)君のその方法だけが、いまの状況のなかでゆいいつの正しい、正しい方法だと思うの。(略)泣いてるんじゃないの。泣いてるんだけど、これは悲しいってだけじゃないの。これはね、正しさの証拠なの。(略)あの子たちにも、いつかわかるときがくる」
小説の半ばを過ぎてここを読んだとき、おおそう来たかと、思った。
世代のギャップ(などというものが本当にあるのかという疑問はあるが)を感じ、とりつく島がなかった作品がようやくフックした。キリスト教はこうして成立したのだと思った。ニーチェがキリスト教の起源にみたルサンチマン、弱く惨めな者が、その弱さ惨めさを逆手にとって強者に対する勝利の梃子に変えてしまう、という屈折した心裡が描写されている、と思った。
そして、「僕」が治療に通った病院での、苛めグループの中で直接手を下さずに苛めのアイデアを出す百瀬との対決場面。「僕」は、君たちは何の権利があって、僕に暴力をふるうのか、と問う。百瀬は答える。
「権利があるから、人って何かするわけじゃないだろ。したいからするんだよ。(略)無意味なことをするなって君は言ったね? 無意味だってことには賛成できるけど、そんなの無意味だからいいんじゃないか。無意味だから、いいんだろ。それにたいして放っておいてほしいと君が感じるのはもちろん百パーセント、君の勝手だけど、まわりがそれにたいしてどう応えるかも百パーセントまわりの勝手だ。ここんとこはなかなか一致しないもんだよ。君が世界に望む態度で世界が君に接してくれないからって世界にたいして文句は言えないだろう?」
百瀬はさらに言う。「自分がされたらいやなことは、他人にしてはいけません」というのは嘘だ、自分でものを考えることも切りひらくこともできない、程度の低いやつらのいいわけにすぎない、と。なぜなら、自分の娘がビデオで裸になったり男とやりまくる仕事につくことには反対するくせに、誰かの娘が出ているビデオを見たり、裸になってやってくれる店に行っているではないか、と。
さらに百瀬は、「僕」が斜視であることは苛めと関係ない、「僕」が苛めを受ける決定的な要因ではない、と言って「僕」を呆然とさせる。
百瀬は笑いながら言う。
「地獄があるとしたら、ここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」
見事な「超人思想」である。百瀬は、「僕」の甘いヒューマニズムに論理で勝っている。
アマゾンの評を見ると、☆五つから☆一つまで、評価は分散している。賛否が分かれるのは傑作の証拠だろうと思うが、☆一つとする人は、この小説がいじめを絶対悪と描いていないことに不満があるようだ。しかし、苛めは絶対悪だと言えば、いじめはなくなるのか? なくなりはしない。苛める側が最後に後悔するような筋にすれば、留飲は下がってもお伽話でしかない。そんなお伽話を求める心性がvulnerablity(攻撃されやすさ)を増大するのだ。
コジマは、食べることも拒否し始める。それは、世の中にあるすべての弱さのために、虐げられて、苦しめられて、それでもそれを乗り越えようとしている人を忘れないための証だという。ここは、聖性が倒錯でしかないことが描かれていると読んだが、アマゾンの評の中には、コジマの聖性にマジに感動している人もいるようだ。
では、百瀬の「超人思想」の方はどうか。生に意味が無いという「論理」は正しい。生に意味を求めるコジマの「論理」より圧倒的に正しい。コジマは苛められていることに意味を求めるが、苛めている百瀬は苛めに意味は無いと言う。したいからしているだけ、たまたま、いま、自分には苛めができるからしている。それだけ、半年後はわからない、とうそぶく。半年後、一年後、十年後、大人になった百瀬は生き方を変えているだろう(考え方は変えずに隠していても)。変えなければ犯罪者である。すでに苛めは十分に犯罪であるが、14歳未満だから罰せられないだけだ、と百瀬は言う。百瀬は論理的に正しいか。正しいだろう、途中までは。苛めをしたいという欲求に従うことは、従わないこととおなじく選択されたものであり、その選択を正当化する論理は、百瀬には無い。百瀬は、そこは論理ではなく、百瀬が百瀬であり、「僕」ではないという事実に基づくと思っているようだ。自分が自分にとって特権的存在なのだ。そして、相手が相手にとっても特権的存在である、という論理の普遍性は認めない。あるいは論理として認めても、特権的存在者同士の戦いになり、その闘いに勝てばいいと思っているようだ。百瀬は、論理的に優位に立っていると自尊しているようだが、論理は徹底されていない。
「僕」はコジマと百瀬の「論理」の間で揺れ動く‥‥。
(つづく)