原因の原因の原因の・・・ | メタメタの日

原因の原因の原因の・・・


 ブッダは、老死の原因は生、生の原因は有、有の原因は取、取の原因は愛、愛の原因は・・・・・・、識の原因は諸行、諸行の原因は無明、と12の項についてその原因を究明していったわけです(「十二支縁起」)。そして、これがブッダの悟りであった。

 しかし、ブッダは、最後の項、無明の原因は明示していない。

 これはどういうことなのか。

 無明が「第一原因」「究極の根拠」である、とする仏教の立場もあるようです。無明をショペンハウアーの「盲目的意志」のように理解するわけです。


 しかし、『大智度論』に次の一文があるようです。

「若し無明の因縁を、更に其の本を求むれば即ち無窮にして、即ち辺見に堕し、涅槃の道を失せん。是の故に求むべからず。若し更に求めなば即ち戯論に堕せん。是れ仏法に非ず。」


 そして、松本史朗氏は、次のように記します。

「無明には『其の本』はない。もしそれを追求すれば、仏教ではなくなる。つまり無明は、〝本〟をもたないものだというのだ。私にとってこの〝本〟とは実在せる存在論的〝根拠〟を意味する。従って、これは、無明が無根拠であること、無明以下の十一支も無根拠であること、総じて〝諸法〟が存在論的に無根拠であることを意味する。」(『縁起と空』71頁)


 無明の縁(原因、根拠)が無い、ということは、①無明が根本原因であるとする立場と、②無明に根拠がないのだから、無明を根拠とする諸行にも根拠がなく、諸行を根拠とする識にも根拠がなく、識を根拠とする・・・・・・、生を根拠とする老死にも根拠がなく、ひっきょう十二支すべてに根拠がないとする立場、に分かれる。

 仏教は、②の立場だろうと思うのです。(松本史朗氏に倣って)

 ①は、ものごとの原因の原因の原因・・・・・・と追求していって、ついに根本原因として「神」を設定せざるをえなかった、ユダヤ・キリスト・イスラム教の一神教の考え方に通ずると愚考する。

一神教では、此の世は、天地創造を始点とし最後の審判を終点とする「有限の世界」で、有限の世界を超越したところに、神の存在を想定する。


 私の考える仏教は(生意気にも『大智度論』や松本史朗氏の考えも超えて)、ものごとの原因の原因の原因・・・・・・と、すべてのものごとには原因がある。「第一原因」「根本原因」は存在しない。無明にも原因があり、無明の原因にも原因があり、無明の原因の原因にも原因がある・・・・・・と無窮であり、因果の連鎖は無限に連続している。そして、この無限連鎖の世界を超越した別世界(涅槃)は存在しない。・・・・・・それは辺見で、戯論で、仏法に非ず、というならそれでもいい。しかし、ブッダの論理を突き詰めると、こうなるのではないか。

 そして、無限の連鎖のどこかを切ると、それ以降の連鎖は、帰納法で前倒しに滅していく。どころか、それ以前の連鎖も後倒しに滅していく。けれど、やっぱり因果の連鎖(此の世)は存在しているが、その連鎖に囚われることは、もうない・・・・