東條英機、靖国、東京裁判 | メタメタの日

東條英機


 東京裁判の判決を受け入れた心





 昭和天皇が、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることに不快の念をもらし、「だから、私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語ったという側近のメモが、昨年明らかになった。


天皇の発言を知ったら、A級戦犯として靖国に合祀されている東條英機の霊は、何を思っただろうか。


「天皇狂い」と言われるほど、天皇の心を己が心としていた東條は、「承詔必謹」と受け止めただろうか。


いや、そもそも彼自身が靖国に合祀されるとは思ってもいなかったのではないだろうか。






権力を持たない「独裁者」





『昭和史』の著者・半藤一利さんにインタビューをしたことがある。半藤さんは、戦前の日本は陸軍を抜きに語ることはできない、と語った。(では、戦後の日本で陸軍に匹敵するものは何ですか、「昔陸軍、今総評」というから、労働組合ですかと訪ねたら、言下に、アメリカだ、と答えられた。)


戦後民主主義教育を受けた世代にとって、軍隊は盲点だ。連隊と大隊ではどちらが大きいのか、師団と旅団はどう違うのか? 戦前なら子供でも知っていたことだろう。


戦時の軍隊は、下から、分隊(一〇人)、小隊(四〇人)、中隊(二五〇人)、大隊(七五〇人)、連隊(二千人)、旅団(四千人)、師団(一万二千人)、軍、方面軍と組織され、いちばん上に陸軍と海軍の最高指導部で構成される大本営が設置される。これが戦時下の軍の体制である。


命令する側の一番下が大隊長で、命令される側の一番上が中隊長(大尉または中尉)となる。


乃木希典や東郷平八郎、山本五十六などの軍人の名前はオーラを放っていただろう。


そんな時代があったことが、一九四五年八月十五日に凹レンズを置いたかのように、遠くに小さく見える。虚焦点に浮かぶ像は、東條英機だ。


東條英機は、過大にも過小にも評価されている。ヒトラー、ムッソリーニと並び称されることがあるが、それは、戦前の日本の機構に対する無知からくる過大評価だ。


東條は、太平洋戦争開戦時の総理大臣であり陸軍大臣でもあった。しかし、戦争指導は軍の統帥部の管轄であり、政府側は(首相、陸軍大事、海軍大臣も含めて)、関知することができなかった。また、陸軍と海軍は互いにライバル視し、協力体制にはなかった。


つまり、日本軍全体としては、政治(軍政)のトップに陸相と海相がおり、軍事(軍令)のトップに参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)がいるという四頭体制で、陸相・東條英機は、形の上では、四分の一の存在に過ぎなかった。


政府と統帥部(大本営)は、お互いの意思疎通のために「連絡会議」を開催していたが、太平洋戦争開戦の一九四一年十二月八日の四日前の連絡会議においてすら、政府側の閣僚は、開戦日を知らされていなかった。さすがに、陸相の東條と海相は知っていたが。


首相として国事のトップにいる東條も、統帥部には力が及ばなかった。このような体制で戦争を戦うことがいかに困難かは分かる。独裁者ヒトラーやムッソリーニに比べるべくもない。


東條が自ら、陸軍大臣と共に参謀総長の地位に就き、海軍についても、自分の言いなりになる嶋田繁太郎海軍大臣に軍令部総長を兼務させたのは、戦局も押し迫った一九四四年二月だった。


しかし、明治十一年(一八七八年)に、参謀本部として統帥権が独立して以降初めて、軍政と軍令の最高責任者を同一人が占めることは、「独裁者」東條の不人気を高めた。その五ヵ月後には、サイパン陥落の責任を取らされて辞任。敗戦の一年前に東條は、戦争と政治の表舞台から消えていた。


敗戦後、国民の怨嗟は、軍指導者、とりわけ東條に集中した。そこには正当な要素もあったが、過剰な思い込みもあった。


極東国際軍事裁判(東京裁判)の最終論告において、アメリカ人検察官でさえ、東條ら「A級戦争犯罪人容疑者」は「ナチスのようなならず者ではない」と述べた。しかし、「だからこそ、悪を選択したことに、罪を負わねばならないのだ」とも。





カミソリ東條の狭隘さ





 A級戦犯として巣鴨プリズンに収容され、絞首刑で処刑されるまでの三年余りの間に、東條英機は二つの点で変わったと言われる。


 一つは、それまで文学など読んだことがなかったのに初めて漱石などに親しんだことや死を前に仏教に救いと悟りを求めた、という心境の変化。


陸軍中将の父を持つ英機は、一五歳の年に陸軍幼年学校に入って以降、陸軍の中だけで生きてきた。一九四〇年五六歳のとき、近衛内閣の陸軍大臣として初めて政治に関与する。


その翌年、近衛が政権を投げ出すと、開戦論の強い陸軍への抑えになるべく、東條に組閣の大命が降りた。強硬派の東條なら強硬派を抑えられるだろうという判断だった。しかし、天皇の平和への意思を体した東條をしても、もはや戦争への流れを止めることはできなかった。


首相としての東條は、「カミソリ」と言われる切れ者だったが、「陰険な憲兵体質」は否めなかった。ライバル石原莞爾にかかれば、「あいつはまぁ主計将校だな。兵器を十挺なら十挺きちんと整頓するような事は間違いないがその他のことはダメだ」と形無しだ。


そして、巣鴨で東條が認識を大きく変えた二点目は、アメリカ民主主義に対する評価だ。


連合国軍のMPに逮捕される直前、東條は拳銃自殺を試み失敗し、米軍の治療を受けた。その際のMPたちの教育程度と見識に打たれて、アメリカデモクラシーの力を感じ、将来の日本もこの方向への改善が必要だと述べたという。しかし、そんなことも知らなかった視野狭窄な指導者が日本を戦争に導いたという事実は驚愕である。





東京裁判の愚劣と希望





東京裁判で、東條をはじめとする二八人のA級戦犯被告たちには、アメリカ人の弁護士も付けられた。英米方式の裁判に慣れない被告たちの便宜を図るためだったが、戦勝国が敗戦国を裁くという「政治裁判」の本質をカモフラージュするものという批判もあった。


しかし、アメリカ人弁護士たちは真摯だった。


ブレークニー弁護人は、法廷で次のように述べた――「真珠湾爆撃が殺人なら、われわれは、広島に原爆を投下した者の名前を知っている、その作戦を計画した参謀総長、その実行に責任のある国の元首の名前を知っている。その人たちが裁いている」と。


また彼は、米軍諜報部員を証人喚問し、ルーズベルト大統領が、開戦の1日前には傍受電報から日本の開戦を予知していたことを立証した。


被告・重光葵は日記に記す――「米国人が、正義のためには敵味方の関係も顧慮しない態度は米国民主主義の強みであって日本人の大いに学ばなければならぬところである」と。


また、二年間に及んだ法廷の最終弁論で、ローガン弁護人は、こう述べた――「われわれは裁判官に彼らの立場になって考えてくださいとお願いする。愛国者としてあなたたちは他の決議をすることが出来るでしょうか」と。


この日、重光は日記に記す――ローガンの「舌鋒火を吐き東條をして泣かしむ」…。


終戦時の指導者達が、ポツダム宣言受諾に際し、国体(すなわち天皇制)の保持にこだわったように、開戦時の指導者だった被告達も、国体の保持のため、天皇に責任を及ばさないことを心に期して裁判に臨んだ。それはまた、占領政策実施のために天皇の利用価値を認めていたアメリカの意図にも合致していた。


一九四八年十一月、東條を含む七被告に絞首刑の判決が下された。七名は従容として死に臨んだという。


そこには、天皇を守ったという自足感と共に、「アメリカの弁護士がよくあそこまでやってくれた」という感謝の念もあっただろう。実際、最終弁論の後、東條被告らは、感謝の言葉をアメリカの弁護士たちに伝えたという。


東京裁判の開廷初日、精神を病んだ被告・大川周明は、前の席の東條の頭を叩き、退廷させられた。そのとき大川は、“It’s a comedy!”と叫んだ。


確かに東京裁判は、戦勝国が戦敗国の指導者たちを「事後法」(「平和に対する罪」「人道に対する罪」)で裁くという「政治コメディ」ではあった。


しかし、東京裁判の中に人類の未来への希望の芽があったとしたら、それは、平和や人道に反する国家の行為が犯罪になることを世界が認めたこと(戦勝国への適用が無いことはコメディのままだが)であり、敵味方を超えたアメリカ人弁護士の真摯さであり、被告の無罪を主張したインド人判事パルの無比の判決であろう。そして、そこに、日本再生の礎として死んでいった七名の心をも加えることができるかもしれない。


東條は、宣誓供述書を次のように締め括った――この戦争は自衛戦争であり、国際法には違反しない。しかし、敗戦の責任は総理大臣だった自分にある。「私はこれを受諾するのみならず真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります」と。


このとき東條は、自分の責任で戦死させた者達と一緒に靖国に合祀されることは、思いも願いもしなかっただろう。


靖国に合祀することは、東條の心とは相違する。それが天皇の心を己が心として生きた東條の「真心」だろう。