信長とイヴァン雷帝 | メタメタの日

一昨年後半に仕事で書いた文章です。

まだホリエモンがマスコミでもてはやされていた頃で、現代日本には小泉純一郎とホリエモンの2人の信長がいるというノリの企画でしたが、当然そのようなノリの文章にはなっていません。


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信長とイヴァン雷帝

     専制君主の光と影


十六世紀を生きた東西二人の暴君


織田信長が日本で暴君として恐れられていた十六世紀、ロシアでやはり暴君と恐れられていた皇帝がいた。没後、「雷帝」と呼ばれたイヴァン4世である。

信長は一五三四年に生まれ、一五八二年に本能寺で殺された。雷帝は、信長に四年先立って生まれ、二年遅れて死んだ。二人はほぼ同時代を洋の東西で生きたことになる。

桃山時代の南蛮屏風図にイヴァン雷帝を描いたものがある。信長は宣教師からイヴァン雷帝のことを聞き知っていたかもしれない。(その逆はありえなかっただろうが。)

二人は時代の統治者として、中世から近世に向かう「歴史の必然性」を引き受けた。国家の中央集権化をめざし、強権的な専制君主の道を歩んだ。その手は血にまみれ、貴族、兵士、民衆たちから恐れられ、そして敬われた。二人の生涯は、外側から見ると似ている面も多いが、内側からは、対照的な専制君主の光と影が浮かび上がってくる。


出生と生い立ちの違い


 尾張下四郡の守護代の家臣の家に生まれた信長は天下人を目指して戦ったが、イヴァン雷帝は生まれながらにしてロシアのツアーリ(皇帝)だった。

信長が生まれた日本は、天下未統一の戦国時代だったが、ロシアでは、イヴァン雷帝の祖父、イヴァン3世が、モスクワ公国の大公として周辺の諸公国を併合し、十三世紀以来続いたモンゴルの支配(「タタールの軛(くびき)」)も脱して、国家統一と独立を達成し、滅亡したビザンティン帝国の最後の皇帝の姪と結婚して、ツァーリの称号を得ていたのである。

イヴァン3世の孫のイヴァン雷帝の戦う相手は、宮廷に権勢を張る大貴族と周囲の外国だった。


少年期の信長は「大うつけ」として知られる。書物の勉強は十三歳でやめてしまい、守り役の平手政秀の言うことも聞かず、実の母親からは疎んじられた。餓鬼大将となって、合戦の真似事をしたり、下賤の者や野盗とも付き合った。しかし、死んだ訓古の学からではなく、生きた現実から学ぶことで、時代を切り開く発想と徹底した合理精神を獲得したといわれる。

少年イヴァンの場合はどうか。父親が亡くなったためモスクワ大公に就任したのは、三歳のとき。母親が摂政になるが、その母も八歳のときに亡くなる。宮廷の大貴族たちとの権力争いで毒殺されたという噂をイヴァンは聞かされる。孤児となったイヴァンと弟は、貴族たちに、表では利用され、裏では邪魔者と遺棄されて育った。無力なイヴァン少年は、貴族に反抗するかわりに、小鳥の目をナイフでえぐり、犬や猫を塔の上から投げ落として自らを慰めたという。

長じて、貴族階級の力をそぎ、中央集権国家をめざしたイヴァンの内で働いていた力は、歴史発展の必然性に対する信念などではなく、幼少年期のトラウマ(強迫観念)だったのだろう。

信長は十七歳のとき、父の死によって家督を継いだ。イヴァンは同じ十七歳のとき、正式にツアーリの戴冠式をおこない、結婚をした。


行動の君主、言葉の君主


学問を放棄した信長と違い、イヴァン少年は、ギリシア正教会の府主教から帝王学とキリスト教を熱心に学び、「十六世紀最大のモスクワの雄弁家にして著述家」と後世の歴史家から評されるまでになる。


信長は「言葉の君主」ではなかった。著述どころか、自筆の手紙もほとんど残していない。部下との口頭のやり取りも、手短だった。報告を聞くと、議論などせず結論だけを下した。信長の発する一言一言を、秀吉以下の武将は恐れた。出陣の前に『敦盛』を謡い舞ったという「伝説」は生まれても、信長が演説をしたという伝説は生まれなかった。

そもそも、日本の武将には、出陣の前に、戦いの意義と正当性をアジ演説して軍勢を奮い立たせるという習慣はなかった。信長がしたことは、先陣を馬で疾駆して部下を叱咤鼓舞することだった。

信長が「行動の君主」なら、イヴァン雷帝は「言葉の君主」だった。貴族に対してしばしば演説を行なったが、それだけでなく、現在「赤の広場」と呼ばれるクレムリン前の広場の演壇から民衆に語りかけたこともあった。中央集権化前のツァーリは、「ツァーリが命じ、貴族が決定する」と言われるほど貴族の力が強く、ツァーリが自らの意思を通すには、貴族を議論で圧倒する必要があり、それでも貴族がツァーリに従わないときは、直接民衆に訴えることもあったのである。

イヴァンの青年時代からの友人でもあった貴族クルプスキーが敵国リトアニナに逃亡したときには、相手を非難しあう5通の書簡が2人の間を行き交った。イヴァンが書いた2通は、聖書の文句などを引用した長大なもので、公式的な「年代記」とは違い、内心を吐露する箇所もあり、十六世紀ロシアを代表する書簡文学として有名になっている。


戦争と虐殺


信長は戦争の天才だった。

桶狭間の奇襲に始まり、鉄砲隊を駆使した長篠合戦など、生涯に百三十の野戦に出陣し、怪我をしたのは雑賀衆の鉄砲に太股を撃たれたことぐらいだった。一度は敗れた毛利水軍に対しても、世界史上初めて鉄板で装甲した船を建造して打ち破っている。

天下統一に向けて数多くの国内戦を戦った信長に対し、イヴァンはほんのわずかの対外戦争を経験しただけだった。

最初の敵は、東方のカザン・ハン国だった。ツァーリとして戴冠した十七歳の年の一回目の戦争は成果なし。二回目、二二歳のときにカザン攻略に成功するが、このとき、イヴァンは前線に設けられた天幕の仮設聖堂で祈りを捧げるばかりで、実際の戦場に姿を現さなかったため、臆病者と後世の歴史家から言われることになる。

二七歳のとき、バルト海の港を求めてリヴォニアに侵攻する。しかし、この戦争は長期化し、国際化し、リトアニナ、ポーランド、スウェーデンをも敵に回すことになった。結局、戦争開始から二五年後、イヴァンの死の前年に休戦条約を結び、何の成果を得ることなく撤退するという結末になった。

このリヴォニア戦争は、国内にも多大な影響を与えた。戦争初期の勝利を目前にしたとき、ロシア南方にタタール軍が侵入してきた。側近たちは南方対策優先を主張し、リヴォニアと休戦したが、イヴァンの愛妻が時を同じくして亡くなった。母親が貴族に毒殺されたという記憶があるイヴァンは、貴族達を疑い、側近を追放した。

リヴォニアとの休戦が明けた後、ロシア軍が敗北を重ねると、名門貴族が責任を問われて処刑された。イヴァンの親友だったクルプスキーも要職を外され、リトアニナに逃亡したのである。

信長から要職を外された明智光秀は、主君信長を暗殺した。二人の「裏切り者」の対応は対照的になった。ちなみに光秀もクルプスキーも一五二八年生まれなのは偶然の暗合だろうか。

リヴォニア戦争が泥沼化し、貴族・教会とも対立したイヴァンは、思いもかけない行動に出た。皇帝の位を捨て、モスクワから百キロ離れた村の離宮に隠退してしまったのである。クレムリン内の広場でイヴァンからの別れの手紙を読み上げられた民衆は、貴族・教会に押しかけ、ツァーリの復帰を要求した。

こうして、民衆の力を利用してイヴァンはモスクワに凱旋した。皇帝の直轄領「オプリチニナ」制度を導入するとともに、六千人の「オプリチニキ」親衛隊を組織した。以後、七年間、親衛隊は国中をテロルに巻き込むことになる。

何千人という貴族が粛清され、本来は、威厳を意味しただけの「雷帝」の呼称が、恐怖の記憶と結びつくこととなる。旧都ノヴゴロドは、反逆を疑われ、街ごと粛清の対象となった。人口三万人の内、少なくも三千人から半数の一万五千人が虐殺されたという。

一方、信長はどうか。比叡山焼討ちでは僧俗あわせて四千人、長島一向一揆では二万人、越前一向一揆では五万人が虐殺されたという。


「歴史の必然性」は免罪符になるか


二人の行なった虐殺は、新しい時代の産みの苦しみとしてやむを得なかったのだと語られることがある。

20世紀に、映画『イヴァン雷帝』を撮った監督エイゼンシュタインは、映画の冒頭に、「王権は進歩的な要素である」というエンゲルスの言葉を引用している。同時に、暴君として知られるローマ皇帝ネロの教育にあたった哲学者セネカの言葉も付している。「狂気がまじらない偉大な精神はない」と。


歴史の進歩に犠牲を伴うことは避けられないのか、という問いが映画『イヴァン雷帝』の主題であった。その問いに、おそらくは「然り」と答えている『イヴァン雷帝』の「第1部」は、スターリン賞を受賞した。

しかし、「オプリチニキ」親衛隊による粛清を描いた「第2部」は、同じ問いに「否」と答えている。エイゼンシュタインは、スターリン粛清に対する批判の意図を込めて映画を作ったのだ。映画の公開は見送られ、監督はスターリンに呼び出された。 

スターリンは、歴史上のイヴァン雷帝に対する評価をエイゼンシュタインに語る。

「すべての封建貴族を根絶しなければならなかったのだ。それなのに雷帝は、敵にテロルを加えた後、自分の罪を悔いて祈るようなことをした」と。

資本主義から共産主義への「歴史の必然性」を信じ、農民を弾圧して農業の集団化を進めたスターリンならではの評価だろう。

スターリンはエイゼンシュタインに「第2部」の作り直しを命ずる。幸か不幸か、エイゼンシュタインがその後一年余りで亡くなったため、私たちは、現在、元のままの「第2部」を見ることができる。

今では、スターリンが信じた「歴史の必然性」は誤りだったことが、歴史自身によって証明されている。しかし、「正しい歴史の必然性」だったら、犠牲はやむを得ないと言えるのか? そのような「歴史の発展法則」というようなものはあるのだろうか?


日本では、バブル崩壊後の閉塞状況の中で、「時代の変革者」として信長が注目され、信長ブームとなっている。

かつて、作家・藤沢周平は、「信長ぎらい」というエッセーを書き、信長を嫌いになった理由としては、彼が行なった殺戮ひとつをあげれば足りる、と書いた。

また、信長、ヒットラー、ポル・ポトの3人の名前を挙げて、彼らが「無力な者を殺す行為をささえる思想、あるいは使命感といったものを持っていたと思われるところが厄介なところである」とも書いている。


いま私たちは、厄介な時代に厄介な英雄をもとめていないか、自省しなければならないだろう。