ブッダは輪廻を説いたか | メタメタの日

現代日本で輪廻を信じている人がいることにはやや驚くが、紀元前のインド社会の「通念」であった輪廻について、ブッダがどう考えていたかは1つの問題です。

 

並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』の「第3章 原始仏教にみられる輪廻思想」では、次のような方法論で探ろうとしています。


 つまり、史料として存在しないゴータマ・ブッダ自身の輪廻観を、


   古層の韻文資料(スッタ・ニパータなど)

     ↑    ↓

   最古層の韻文資料(スッタ・ニパータ第4章、第5章)

    (↑)   ↓

  (ゴータマ・ブッダの言説)


 と、「最古層」から「古層」へと展開したのと同じ方向(図では上向き)のベクトルが、「ブッタの言説」から「最古層の資料」がつくられるときにも働いていただろう、という想定のもとに、そのベクトルを逆(下向き)にして、ゴータマ・ブッダの輪廻観を探ろうとするものです。

きわめて妥当な想定で、こういう方法こそが信頼できると思います。


「来世に対する表現が最古層の資料では否定的であったのに対し、古層資料では肯定的であった」(125ページ)

「最古層では見られなかった『輪廻(samsara)』という語が古層資料では多く用いられることになる」(125ページ)

「業報に関しては、最古層では説かれていなかったが、古層資料では輪廻と結びついて説かれている」(126ページ)

「(ゴータマ・ブッダの輪廻観が)最古層よりも前段階と想定すれば、最古層に見られる輪廻観よりも一層距離をおいた消極的なもの、と推定でき、さらにものの考え方や見方はあくまでも現世に力点を置くという態度を強く示していたのではないかと推定できる」(129ページ)


ところが一方、宮元啓一『ブッダが考えたこと これが最初の仏教だ』(2004年、春秋社)には、次のような文があります。

「ゴータマ・ブッダは輪廻説を否定したとする、ときどき忘れたころに出てくる『論文』では、かならずといってよいほど、仏典で輪廻を説いている箇所はあるが、それらはみな後世の付加によるものであるという文言が入る。これは、絶対に批判は許さないという『論文』なのであり、ゆえに学問性、知性が完全に欠如しているのである」(はじめに)


 しかし、こういう論文が、なぜ「絶対に批判は許さない論文」と指弾されなければならないのかがわからない。

最古層の文献に「輪廻説」がなければ、ブッダが輪廻説を説いたことを肯定せずに否定すること、あるいは、資料数が少ないことを考慮して留保することには、知性が欠如しているとは思えない。


 また、次のような箇所もあります。

「死ねば何もかも空無に帰するとする、呆れるほど誤って科学的とされる死生観では救いがない、死んでもまた何かに生まれ変わることができるのならば、死んでも人生これで終わりではなく、また何回でもやり直しがきくというのは、何か救いを感ずるところがある」(139ページ)


 救いを感ずるかどうかと、科学的であるかどうかは、関係ないと思う。主観的願望で客観的事実を歪曲することができないことは、大前提ではないのか。

 それに、死んで終わりだという死生観は、かけがえのないこの生を大事にしたいという思いにもつながるはずだ。今この生しかないと思えば,あだやおろそかにしたくない。