ジェノサイドの丘 | metallerのブログ

metallerのブログ

アメーバブログ、始めてみました。

ようやく読了しました。
少し前にこの一年で読んだ本を紹介しましたが、その流れでこんな本にたどり着きました。

 

ルワンダという国をご存知でしょうか。
アフリカ大陸中央部にある小国です。
私もこの本を読むまでは名前くらいは聞いたことがありましたが、

どこにあるのかすら分かっていませんでした。
もちろんこの国の歴史なんて知る由もありません。
まさかこんなことがあったとは。
しかも約10年前。つい最近です。

ルワンダでは、
わずか3ヶ月そこそこで80万~100万人が殺されました。
しかもこれは中世や戦前などの出来事ではないのです。
1994年です。
(ナチスによるホロコーストは1941年~1945年で600万人のユダヤ人や反政府の人たちが殺されたといわれています。)
なぜ第2次大戦のドイツや、ユーゴ紛争ほど話題にならなかったのか。
国際社会はそれをほとんど無視していたからです。
いや、知っていながら目をつぶっていた。
それどころか、「虐殺する側」を支援していた節さえあります。

私がこの本、というかルワンダという国に何が起こったのか、
ということを知りたくなったのは、分からなかったからです。
ナチスや東欧の紛争などでは実際の「虐殺する者」は軍人でした。
ルワンダでは隣人が隣人を殺していった。
昨日まで友人だったものが友人を殺していった。
牧師が教会に逃げてくる人を殺していった。
「千の丘の自由ラジオ」というルワンダで一番人気のあったメディアでDJが虐殺をあおる。
民衆はそれに応えてさらに殺す。
なぜこういうことが起きたのか。

起きてしまったことに対して、そもそもの原因を言うのは愚かなことかもしれませんが、
原因はルワンダという国の中の2つの民族、ツチ族とフツ族の対立です。
少数派のツチ族を多数派のフツ族が絶滅させようとした。
いわゆるジェノサイドです。
表面的にはその通りです。
なんだ、アフリカ国内の部族の衝突か・・・。

事はそう単純なものではありません。
不条理のかたまりです。

元々はツチ族とフツ族の間には相違点はほとんどありませんでした。
ツチ族は牧夫でフツ族は農夫。これが経済格差を生み、
より経済価値の高い家畜を持つツチ族はフツ族を支配していた。
でも共存はしていました。
ツチ族フツ族間での結婚も多くあり、完全に区別することは不可能でした。

ところがです。
19世紀終わり、ヨーロッパの強国達がベルリン会議でアフリカの境界線を定めた。
アフリカ内の地理的・政治的・民族的な既存の王国や部族関係などを全く無視して。
(だからアフリカの国境は現在でも直線で区切られている部分が多い)
このベルリン会議の後、ドイツがまずルワンダのツチ族エリートを後押しし、
ツチ族によるフツ族の支配を強めていきました。
第一次大戦後にはベルギーが「戦利品」として国際連盟からルワンダを与えられました。
ベルギー人は外見がより西欧人に近いツチ族を「より高貴なもの」として、「野蛮な」フツ族を支配する体制を整えました。
そのほうがルワンダを支配しやすかったからです。
ベルギー人はフツ族から徹底的に権利を剥奪し、反対にツチ族には大きな権力を与えました。
さらにIDカードを発行し、ツチ族・フツ族を完全に分離しました。

そして第二次大戦後、
植民地の時代は終わりました。
今度はベルギーは「民主化」の名の下に、フツ族に肩入れし始めました。
そのときルワンダでの民主化運動、政治運動は決して「平等」を求めるものではありませんでした。
二つに分かれた民族のどちらが「支配する側」になるか、でした。

そして「事」が起こりました。
1959年、あるフツ族活動家が殺さたという誤報が流れました。襲ったのはツチ族活動家。
その事件をきっかけにフツ族のツチ族に対する暴力の嵐は吹き荒れました。
事態収拾に動いたベルギー軍はフツ族の暴力を支援しました。
これがベルギーのいう「民主主義」の擁護です。
そうしてルワンダはフツ族が支配する「民主主義国家」となり、独立を果たしました。
ツチ族が日常的に「殺される」という異常な「民主主義」です。
国外に逃げたツチ族は散発的にルワンダを襲撃しました。
その襲撃の度に国内のツチ族市民は放火と殺人によって家を追われるのです。
1963年にはある州だけで1万4千人のツチ族が殺されたということです。
1975年、ハビャリマナなる人物が大統領になり、ツチ族への攻撃の一時停止を宣言して初めてツチ族が「命の心配をせずに」くらせるようになったそうです。
ただし、フツ族のツチ族に対する虐待・暴力・殺害は皆無になったわけではなく、散発的に、ある年は日常的に起こり続けました。
ツチ族に対する差別はそのまま残りました。

ハビャリマナは多数派のフツ族の支持を得、政権を維持し続けました。
ベルギーやフランス、スイスなどの海外からの援助は大統領の懐へと消えていった。
当然、国はますます飢え、そしてエリート階級だけが肥え太るという構図により、ツチ族だけでなくフツ族からも不満が溜まっていきます。

そして1990年。ルワンダ愛国戦線(RPF)という反政府軍がルワンダに侵攻し宣戦布告しました。
政府(フツ至上主義党)はこれを好機としました。
すべてのツチ族はRPFの同調者とみなされ、多くのツチ族インテリ層、富裕なツチ族などは真っ先に逮捕され拷問を受け殺されました。
この戦争にフランスが介入しました。政府のルワンダ武装警察を援護すべく・・・。
実際前線でRPFと戦ったのはフランス軍で、ルワンダ政府軍は国内の敵、ツチ族を虐殺していきました。
またフランスは大量の軍事物資をルワンダに送りつづけました。1994年のジェノサイド発生まで。
ラジオも虐殺をあおりました。
ラジオは「ツチ族によるフツ族虐殺計画を発見した」と報じました。
これは誤報でした。
しかしその後3日間で約300人のツチ族が殺されました。

1992年、海外援助団体からの圧力をうけ、大統領はRPFと休戦協定を結びました。
しかし間もなくマビャリマナ大統領は協定など「ただの紙切れ」と片付けました。
それでも人道援助金は大統領の懐に入り、武器はとどき続けました。
ツチ族も散発的に殺され続けました。殺人者のフツ族は罰せられることは皆無でした。
フツ族急進派にとって、それが「自衛」だったのです。
そしてこの頃、インテラハムェと呼ばれる「社会防衛」のために訓練を受けた集団ができました。

1993年、大統領とRPFは和平条約を結びました(アルーシャ協定)。
そして、和平履行期間中、国連平和維持軍がルワンダに展開することになりました。
フツ族至上主義党の指導者は大統領を裏切り者と呼び、「千の丘ラジオ」は公然と「大統領は死ぬだろう」と予言しました。
そして、雲行きはますます怪しくなってきます。


1994年1月、国連ルワンダ支援団ダレール少将は国連本部の平和維持活動本部に緊急FAXを送ります。
「情報提供者保護の願い」というタイトルです。
情報提供者とは、インテラハムェに軍事訓練を施す教官でした。
FAXの内容は
・彼らはRPFを挑発し、内戦を起こしたがっている。
・キガリ(首都)に40人からなるインテラハムェの組織が40以上存在し、軍事訓練を行っている。
・キガリ在住のツチ族をすべてリストアップするように命じられている。
・大統領は自分の党、派閥を完全にコントロールできなくなっている。
・情報提供者は銃器を隠した大型武器集積所を教える用意がある。今晩にでも武器の隠し場所に行ける。
変わりに自分とその家族を国連の保護下に置いて欲しい。
などというものでした。
この時点でダレール少将は36時間以内に武器集積所摘発に向かう意図があるとした上で、
「当情報提供者に対する保護およびルワンダからの退避を推奨する」と書き、「最重要」と記した。
最後に「意思あるところに道は開ける。やろうぜ!」とメモをした。
ニューヨークからの返答は「やめとこう」。
かわりに、その情報を大統領に伝え、協約違反を警告するよう指示された。
この計画が大統領側近から漏れた計画であるにも関わらず。

そして、1994年4月6日。悪夢が始まりました。
大統領の乗った飛行機が打ち落とされました。
誰がやったのかはいまだに不明ですが、フツ至上主義党は直ちにRPFの攻撃としました。
クーデターです。
大統領が殺されたニュースを聴いたツチ族は、すぐに「この場にいては危ない」と感じ、逃げることを考えました。
一時間後、政府軍は「危機管理委員会」を設置しクーデターを追認。
そしてすぐフツ至上主義党、ジェノシダレ(ジェノサイド実行者)、インテラハムェ、またフツ族民衆による大虐殺が始まりました。(もちろんなかには反体制派フツ族やツチ族に同調するフツ族もいましたが、彼らもまた虐殺される側でした)

1994年4月21日、国連ダレール少将は十分な装備の兵士5000人とフツ至上主義者を攻撃する許可があればただちにジェノサイドを止められる、と報告しました。
同じ日、国連安保理事会は要員を9割削減するという決議を可決しました。

国連はソマリアでの介入の失敗を繰り返したくなかった、ということと、アメリカがルワンダへの介入を渋ったのが原因です。
なぜ渋ったのか。
ルワンダに介入して得るものがないからです。
大量破壊兵器をもっている「疑いがある」だけで「イラク市民を圧制から開放するため」に戦争をしかけたアメリカが、いま現在大量に虐殺され続けている人々を救うことには何の興味もない。
声高に正義を語ることのうさん臭さ、極まれりです。

今まさにジェノサイドが進行しているその最中、国連安保理事会では「ジェノサイド」という言葉を含む決議を通せないでいました。
5月13日、安保理事会はルワンダ支援団を再び増強するかどうかを投票で決定しようとしていました。
米オルブライト大使は投票を4日引き伸ばし、ようやく5500名の増強を決定。
1時間に約300名殺されているその最中です。
6月頭には国連事務総長までもがルワンダでの虐殺を「ジェノサイド」と呼んだ。
アメリカはひたすら「ジェノサイド」ということを拒み、「ジェノサイドの可能性」と呼んだ。
ルワンダでの殺戮を「ジェノサイド」と呼んだ時点で介入する「義務」が発生するからです。
アメリカが介入を渋っている間、フランスはルワンダ(フツ族)への投資を回収するべく介入の機会をうかがっていました。
そして、フツ至上主義の完全敗北から救い出すべく、国連の旗の下、介入し始めました。
「人道的介入」として。
フランス軍がルワンダに入るとインテラハムェの大歓迎を受けました。
5月の終わりには既にツチ族の殺害は下火になってきていました(既にほとんど殺しつくしてしまった)
そこへフランス軍が入り、RPFが侵攻してくる前に、フツ族を安全にルワンダから脱出させるために。
ツチ族や反体制派のフツ族にとって安全地帯はRPFの支配地域だった。
フランス軍は国土の4分の1に展開、占領し「安全地帯」を宣言した。
誰にとって「安全地帯」か。フツ族急進派、インテラハムェたちにとっての安全地帯です。
実際インテラハムェはフランス軍の旗を振ってツチ族をおびき出し、虐殺していたそうです。
フランス軍はフツ至上主義政権とその配下の兵を反政府軍の攻撃下にある正統政府とし、完全にRPFと敵対しました。
以後フランス軍とルワンダ解放戦線の戦闘が続きましたが、
結局RPFのカガメ将軍と国連ルワンダ支援団のダレール少将との交渉により国連軍VSルワンダ解放戦線の全面戦争、とはならなかった。
フランス軍の兵士の中にはツチ族がフツ族を虐殺していると思い込んでいた人が多かったそうです。
フツ至上主義党は常に我々こそが被害者なのだ、という論を展開し、フランスもそれを認めていたから。

そして1994年7月、RPFによる新政府がルワンダに樹立しました。
周辺の国には大量のフツ族難民が出ました。
フツ族難民の中にはインテラハムェやフツ至上主義党、ジェノシダレ(ジェノサイド実行者)が多数含まれていました。
国際社会は人道支援活動として大量の援助物資を難民キャンプにとどけました。
そのほとんどがインテラハムェやフツ至上主義党、ジェノシダレ(ジェノサイド実行者)に吸収されました。
国連は難民中の民兵の武装解除ができないままでした。
難民の中のルワンダへの帰還をしようとするものはインテラハムェやフツ至上主義党、ジェノシダレ(ジェノサイド実行者)に殺されました。
人道支援されるほど、虐殺者を肥え太らせ、着々と再武装させ、そして一般フツ族や子供たちが飢えていく。
ルワンダにおける国際援助の実態です。

何を思えばいいんでしょうか。
「人道」という言葉、「正義」という言葉の無意味さ。
理不尽。不条理。権力者が正義を声高に叫ぶときのうさん臭さ。
「人道的介入」「平和維持軍」
維持するべき平和も無いところでルールだけを保持しようとする国連。
誰も見向きもしなかった虐殺。
虐殺者を支援し続ける国際人道支援。

言う言葉が見つかりません。

そうそう。今度、このルワンダのジェノサイドを扱った映画が上映されます。
ホテル・ルワンダ
この映画は日本でどこも配給会社がつかなかった映画です。
有志により「ホテル・ルワンダを日本で上映する会」が署名を集め、
ようやく来春公開が決定しました。
見に行きたいと思います。

言葉足らずな部分が多々ありますが、本当に「衝撃」を受けた本です。
詳しくはご一読ください。