昨年の今頃に書いたものが
改めて心に留まった。
以下、多少リライトして綴ります。
‐‐
このところ、
”キミスイ”が我が家で大流行していて
(「君の膵臓をたべたい」)
小栗旬が出ている映画はもちろん、
小説も購入し、
そのうち只今公開中の
アニメ映画まで見るに至ると思われる。
大切な人が死ぬって
はじめからわかっている。
すでに死んでしまっているところから
始まるのだから、
結末は予想できる、と思いきや
予想通りではなかった。
明日がくると、当たり前に思い込むのは
なぜなんだろうと考えてみる。
よくよく考えたら、
明日も必ず生きているという保証は
どこにもない。
なのに明日も自分は生きている
ということの臨場感がこれほど高いのは
生きている毎日をずっと繰り返し、
続けているからである。
人間は、臨場感の高いものに合わせようとする、という性質をもっている。
今現在、感じていること
つまり今現在、自分が生きていることが、
人間にとっていちばん臨場感が高い。
それが1分1時間1日1か月と続いてきたのだから、
その臨場感を崩すものが、
なかなか見つからない。
かつて、死について考え抜いた哲学者で
セーレン・キルケゴールという人がいた。
彼は、人間は必ず死ぬということを
「私たちは死に至る病を抱えている」
と、表現した。
この「死に至る病」を誰一人、
例外なく抱えている私たちは、
いずれ自分が死ぬことに
真正面から向き合えない。
向き合っていては生きていられない。
死は、未体験だ。
死を体験して語れる人と出会うことはない。
(臨死体験とかじゃなくて、心臓も脈も止まり、腐敗、もしくは焼かれた)
自分が体験したらその瞬間にもう、
動かない、思考しない、感じない。
いつ訪れるかわからない
誰かと交換できない
ちょっと試してみるなどできない
そして必ず、一番最後に、絶対に、
自分にやってくる
哲学者キルケゴールは、
死を考え抜いた結果、絶望してしまった。
そして自分の内側へと目を向けていった。
それが今の自己啓発のルーツ、
実存主義哲学のはじまりだった。
明日が必ずあるという保証のない
きわめて曖昧な確信。
その極めて曖昧なものを糧に、
わたしたちは日々、いる。
‐‐‐
自分にとっての幸せや
自分にとっての真実、真理を追究するのが
実存主義哲学のはじまり。
当然、自分のことは臨場感が高いため
そういった「自分探し」的なビジネスは広く市場に受け入れられることになった。
でも実際、それだけでは、
資本主義をベースとした複雑なこの社会で
自分の欲求を満たすことが難しいのが事実。
◆
私自身、死について考えてみても
あまり臨場感がわかないのが正直なところ。
そして、できれば考えたくないと思っていて
明日も明後日も、来年も再来年も
予定や計画があるし、
10年後、20年後もまだ生きてると思ってる。
それありき、で今頑張れてる気もする。
もう死ぬ!ってなったときには
何がしたいのか
その時、「できない」を残したくない、と思っている。