横社会では私の意識は相手の無意識であり、相手の意識は私の無意識である。縦社会では私の意識は相手の意識であり、私の無意識は相手の無意識である。私の意識が変われば相手の無意識が変わるその世界がパラレルワールドである。私の視点ではこの世界には私しかいない。瞑想は自分の無意識を癒すことが出来ると思う。

外側に有るやる事(物質的や精神的なことなど)がなくなると無気力になる(例えば定年後の男性的傾向)。内側にあるやる事はエゴではない真我はあるか。内側(主観)の要求に対し受身(言われたことをやる)に生きれるか(=外側には言われなくてもやる)。外側(客観)で受身(言われたらやる)に生きると内側では能動的(言われなくてもやる)に生きていた。結論として外側の声を聴けば内側の声は聴かない(=内側の声を聴けば外側の声は聴かない)。

NHKの教育テレビでフッサールの哲学を紹介していた。その時代は伝統的な主観の哲学よりも科学という客観が支配をしていたみたいだ。実証が全てであり心情は迷信扱いされていたのだと思う。主観も客観も両方大切なものである。以前チャネリングに夢中になった。仏教はある意味で科学的である。それらは男性と女性のようなものともいえる。客観では世界のなかに私がいて、主観では私のなかに世界があるという。

死と退職は似ている。辞めることの抵抗、周囲の関係など。前世で精一杯生きれたか。

AIと会話が出来るようになると、人に聞いたりするようなことがなくなってしまうのではと思った。革新的であり便利ではあるのだが。