ひとは「同一化」しているものに
    支配(コントロール)される



◎ ロベルト・アサジョーリは言いました。


「私たちは同一化しているすべてのものに

 支配(コントロール)される」


(出典『サイコシンセシス』ロベルト・アサジョーリ著 

 誠信書房1997年刊)



◎「何かに同一化する」ということは・・・


「何かに同一化する」ということ。


それは、「何かにこだわる」というだけでなく、

もっと進んで「(心の中で)それと自分の間に区別がなく、一体化」

していることです。

 それほどまでに自分と一体化しているので、

それに強くこだわる。

だから、強くこだわったものに、

私たちは、結果的に振り回されることになります。


 太陽から離れられない衛星のように、

太陽に振り回され続けるわけです。



◎ 例えば・・・;


 子供だから振り回されるのではありません。


大人でも、例えば、


「お金」「組織」「権力」「地位」「職務」「面子」「外見」

「実績」「感情」・・・・などなど・・・


といったものに「同一化」(一体化)している人は、

それに振り回されてしまいます。


 自分はどうでしょうか? そして、周囲の人はどうでしょうか?


例えば、


「組織」に埋没し、個性を無くして、組織にひたすら従属し、

その人生を依存するといった人。

 また、「所詮、私の仕事は**だから」と自分で勝手に線引きした

職務や職位に囚われて、やるべきこと、言うべきことを言わないで、

不平不満を自ら招いているような人。


 同様に、「美しい外見」に「同一化」している人は、

「外見」に囚われます。


だから、自分の容姿が衰えたとき、自分が無価値な存在のように

思われます。

美しい外見をもつ自分こそが、自分だったのですから。


 また、「お金」や「特殊な技能」に「同一化」している人は、

それを失った時、まるで自分でなくなったかのような状態に

なるでしょう。


 特定の「価値観」「思想体系」に「同一化」している人は、

善かれ悪しかれ、やはりそれに振り回されます。


 また、いつまでも「過去」の出来事をひきずって、

「怒り」「怨み」「嫉妬」「ねたみ」「悲しみ」「後悔」など

といった根深いマイナスの「感情」に「同一化」し、

哀しいことに、「毒を食らわば皿まで」と「自己破壊的感情」に

「同一化」し、振り回されてしまう人もいるようです。
 さらに、そういう自己破壊・破滅的な感情に悩まされ、流される自分こそが、「自分らしい」と思う人もいるわけです。


 たとえば、「怨みの感情」と「同一化」している人にとって

「怨み続ける私」こそが、自分であり、怨みに生きることこそ

自分の人生。

怨んで怨んで怨み抜いて、怨み死にしようとしてしまいます。


 「面子」に「同一化」していると、

たとえ、相手の言うことが正しいと、頭では分かっていても、

相手に同意することがイヤなのです。

相手の言うことに「なるほど」と思わず頷いてしまう自分が許せない、

自分らしくないと思うのです。

 このとき、本人は「今、ここ」にありながら、

「過去」「感情」「面子」などに縛られて生きています。


しかも、過去に起こった事実は変えることはできません。

そしてずっと、苦しみの中にいます。

このとき、本人は心の地獄を生きています。


 しかし、ここでのべた「地位」「外見」「思想体系」「感情」など、

囚われていたものはすべて、変化し、あるいは消え去って

しまうものです。


そして、それらが消え去った後でも、

実は、「わたし」という主体は「消え去るわけではない」。

ここが、面白いところですね。



◎ 脱・同一化の原則


「自分」と「自分以外のもの」とを、ちゃんと区別すること。

それが、脱・同一化の原則です。


例えば、

「わたしは感情を持っている。しかし、わたしが感情なのではない。」

・・・という風に。

さっそく、やってみましょう!



例えば;


 一般的によく聞かれる言葉に、

「人間は感情の動物である」という言葉がありますね。

でも、この言葉は

「感情と人間とが、ほとんど同一であるかのような錯覚」を起こしやすい

言葉なので注意が必要です。

 もちろん、この言葉は「なんでも物事は理屈通りに進まなければ

気が済まない」という人に対する警句としては有効でしょう。

 確かに、感情を無視して、理屈ばかりで周囲を動かそうとして

墓穴を掘ることがありますからね。


 しかし、確認しておかなければならないことは、

「人間は感情の動物である」という言葉は、

「感情『が』人間である」と言っているわけではなく、

また、「感情『が』私自身だ」という意味でもないという

点だと思います。


 あくまでも、この言葉の意味は、

「人間(私)は感情を持っており、それに左右されやすいものだ」

という意味だと思います。

 ですから「感情」と、私という「存在」(being)とは別ものだ

ということが言外の前提なのです。


 なぜ、こんな当たり前のことをクドクドと確認するのかというと、

「人間は感情の動物である」という言葉は、下手をすると、

感情に「同一化」し、感情に流され、振り回されがちな人の

「自己正当化」の道具になってしまう危険性があるからです。

・・・ 冷静に考えれば、次のことが言えるでしょう。


「私(という存在)は感情をもっています。

 しかし、私は感情(そのもの)ではない。」


「私は自分なりの考え方をもっています。

 しかし、私は考え方(そのもの)ではない」


「私は体を持っています。

 しかし、私は体(そのもの)ではない。」

(「私の体」とは言うが「私は体」とは言わない)

・・・これらは事実ですね。


このように、

「私という存在」(being)と「それ以外」(doing)は区別する

ことができます。

(実際、doing(行為)は、その主体であるbeing(存在)無しには

 成立しないという関係にある)



◎ 心の中で唱えてみましょう

 一度、次の言葉を心の中で唱えてみませんか?


「自分は感情をもっている。自分は感情ではない。」


「自分は過去の経験を持っている。自分は経験そのものではない。」

・・・ といった具合に・・・。


 このように、「自分」と「自分以外」のものとを区別し、

これまで「同一化」していたものと、ひとつづつ、次から次へと

お別れしていくと、どんどん心が軽くなります。

 身体も、感情も、思考も、過去も、


なーんだ、

みんな自分自身ではなかったんだ~ と、

心が軽くなりますね。

 いままで、沢山いろんなものを自分だと思っていたもの。

しがらみ、囚われ・・・、実はそれらは自分(主体)では

なかったのです。

 あたかも、たくさん着込んでいた服を脱いで、

贅肉がとれて身軽になるように・・・;

 脱・同一化によって、「心の体重」(笑)が軽くなります。

・・・これって、「心のダイエット」ってことかも?(笑)

 本来、自分でなかったものが、

自分を苦しめていたということが分かったなら、

それを捨ててしまうのもよいでしょう。

それは「心の不良債権」(作家の五木寛之氏が使っている言葉)

のようなものではないでしょうか?


心の不良債権は、自分のものだと思っていたら、

実は単なる紙切れで、

しかも、自分の脚を引っ張り苦しめるだけのものだったりする・・・。

 特に、怨念や憎しみといった感情に「同一化」している人は、

「相手に原因があるのではなく、


 不幸だと思っている自分がいる。


 それだけなのだと気づきましょう」


(出典:「続・気楽なさとり方」(さとりの技術の10番目)より 

     宝彩有菜著 日本教文社97年10月刊)


本当に、深く、それに気付くことができれば・・・

そうすると、一気に心が軽く、明るくなりますね。(笑)

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