来島又兵衛 | ♪ NEXT名曲 総決起集会♪

来島又兵衛

 ★☆史跡 of ジョギング・コース 3☆★
瀬戸内海国立公園内の峨眉山コース(坂ばっかりでケッコウしんどい~(-。-)~)を走ってると最後の山を越えた辺りに、明治三年(1870年)元遊撃隊士によって創建された光峨眉山護国神社があり、

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禁門の変で戦死した遊撃隊総督来島又兵衛ほか、四境戦争、鳥羽伏見の戦いの戦死者、合わせて81柱が祀られています。

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       ↑字面が見難いですが又兵衛の招魂墓です↑

で・・・・・来島又兵衛とは→

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       ↑こんな↑オッサンでした。
                          ・・・・・・終わり(^o^;)





1817年(文化14年)1月8日 今の美祢市厚保の喜多村政倫の次男として生まれる(幼名を亀之進)
1836年 政常の養子となり剣術を究めた後さらに江戸で剣術を磨いたそうです(そのせいで長州藩士には神道無念流を学ぶものが多かったのは来島又兵衛によるところが大きかったとも言われてるとか・・・)
また武術だけでなく数字にも強く経理能力にも秀でており矢倉頭人(会計責任者)もやってたそうです。
     松蔭いわく「飛耳長目 」「胆力人に過ぎ、清算密思あり」
っと吉田松陰も最大級の評価をしていたようです。

1863年久坂玄瑞らと射撃に巧みな猟師を集めて「遊撃隊」を組織し国事にあたリました。

1864年蛤御門の変では、高杉晋作の説得や引き伸ばし策にもかかわらず、かたくなに出兵を主張し、結局風折鳥帽子に先祖伝来の甲冑着込み兵を率い上洛・・・
・・・しかし残念ながら薩摩軍川路利良の狙撃に倒れ、信頼を寄せていた甥の喜多村武七に介錯させ自ら槍で喉を突き自害(>_<)

っと必ずしも明治維新に華々しく名を残した人物とは言えないかもしれませんが、当時40代半ばの最古参(^。^)>にもかかわらず血気盛んで、正義の為に攻めの姿勢を貫いてたのは、高杉晋作や久坂玄瑞・・・等若い志士にとっては、長州藩という大きな封建的な組織の中にあっては、非常に心強く信頼のおけるオッサンだったのではないでしょうか?(実際若い志士達から「来翁」と呼ばれ親しまれてたそうです)と同時に、表舞台に出ない人々の力なくして明治維新は無かったのでしょうね。もし来島又兵衛が『龍馬伝』に出るなら泉谷しげる 希望!(昔『白虎隊』では長州藩一のヒール世羅修蔵を演じてましたが・・・)

それはソレとして、なんで、その「来島又兵衛招魂墓」が室積に在るのか?疑問だったんですが、オカン情報では(;^_^A→昔々峨眉山の麓にある普賢寺には高杉晋作とか奇兵隊の志士もよく泊まってたそうな・・・・で多分招魂墓がるくらいなんで来島又兵衛はこの地に良く訪れてたのかもしれません?今度、機会があったらお寺の方に伺ってみるつもりです。

                       おわり


★☆ロシア・ウクライナMusics☆★

最近ご無沙汰してた旧ソビエト連邦関係を・・・・・
普通の曲はイマイチ、ピンっときませんでしたがロシアン・ボサっぽい曲は、はなかなか良かったので・・・
 Alsou - Inogda 
Alsou - Зимний сон (Winter) 
Alsou - Небо 
                               おわり
Alsu(ロシア名→Алсу)