伊藤九三
長府博物館の龍馬関係展示品シリーズ③
伊藤九三 (1830→1872)
★真ん中が坂本さん、向って右が伊藤さん、左端は伊藤家の使用人だそうです★
龍馬とは阿弥陀寺通りの旅籠屋で知り合い龍馬の器の大きさに惚れこみ、自宅(本陣伊藤邸)に連れ帰り、下関での龍馬の定宿とさせ(住んだ部屋を龍馬は自然堂と呼んでた)、物心両面にわたり龍馬(海援隊)を支援してたそうです。どうやら高杉晋作と白石正一郎に似た関係だったようですね!
しかし龍馬と言い晋作と言い、文武両道だけでなく当時のお金持ちを魅了する『営業力?(集金能力(^。^)>)』の高さも兼ね備えてたのは特筆すべき要素の一つでは?文武商三道?(^_^)v
で、伊藤家ですが代々長府藩の本陣だった由緒ある名家で、赤間神宮(春帆楼)のすぐそばに位置し
で、伊藤家ですが代々長府藩の本陣だった由緒ある名家で、赤間神宮(春帆楼)のすぐそばに位置し
♪エピソードとしては
①毎朝、伊藤さんの嫁が龍馬の髪を結ってたので、「唐人の寝言」って俚謡を唄って教えたのが伊藤家で受継がれてたそうです。そのリリックは・・・
♪唐人の寝言にゃ しんちや、しんちや、しんちや、
東海道にええうそつおや、きのやかちのや、
奥州てれんつ、てんしよがおによぼに、こによぼ、
ちゅうちゅう、すげのけんちゅう、けんちゅうさんは、
ででいす、ややす、今からやいてやきののせんてい、
こんぼうたんは、いしずりや、でつくりや、
おででつくり、でつくりとあずつこの、ずんぼの浜から
あつばつばば~♪
っと・・・私には意味不明(^。^)>しかし、『唐人』で、しかも『寝言』なんで、意味が(=`_´=)ノ彡判る方がオカシイ!のでは?
②慶応三年春、稲荷町の遊郭で遊び朝帰りした龍馬が、お龍さんにヽ( )`ε´( )ノビシビシ責められてるところ、たまたま訪れた長府藩報国隊士 梶山鼎介(ていすけ)にアドリブで三味線を爪弾いて唄ったら、さすがのツワモノお龍も破顔して機嫌を直したって言う曰く付きの歌だそうです。
(なお龍馬は梶山鼎介の将来を期待していて三吉慎蔵宛の書簡(同年5月5日付け)で、海援隊に入れて海軍、洋学を学ばせるように要請してたそうです。結局彼は83歳まで生きて明治時代には衆議院議員になってます)
♪右が梶山さんに書いた歌、左は歌会で龍馬が書いた短冊♪
♪恋は思案のほかとやら
肥前の瀬戸の稲荷町で
猫も杓子も面白う
あそぶ郭の春景色
ここに一人の猿まわし
狸いっぴき振りすてて
義理も情けも無き涙
ほかに心はあるまいと♪
何故か「龍馬がゆく」の文中では「稲荷町」が→「丸山」になっており下関滞在時が長崎滞在に置き換えられてるようです。司馬遼太郎の意図は(=`_´=)ノ彡謎!
③伊藤九三は代々続く世襲名「(=`_´=)ノ助大夫~!」を堂々と名乗ってたのに龍馬が「だっせ~古ぅ~昔の田舎芝居の役者みたいゼョ~(-。-)~」と冷やかされ・・・・アッサリ「伊藤九三」に変えたらしい(^。^)>
(また彼は、長崎オランダ商館長から「フォンデンブルグ」って言う別名も貰ってるそうです。フォンデンブルグはポーランド語「Wałbrzych」が起源で『森の城』って意味らしい )
④お龍さんの述懐記によれば、春のある夜に、武蔵と小次郎の戦った巌流島に小船で(=`_´=)ノ彡上陸!龍馬とお龍さん二人で花火を上げたと言う記録があるそうです、一応、今派手にやってる海峡花火のハシリ!ですかね?(^。^)>
っと下関でもいろいろあって、その年長崎に移った龍馬ですが慶応3年9月、土佐へ向かう途中の数日、下関に立ち寄り、お龍さんを下関(伊藤邸)に残して旅立ち、結局、同年11月京都・近江屋で凶刃に倒れ、お龍さんは、その悲しい知らせを下関の伊藤邸「自然堂」で聞くことになりました(>_<)
しかし、短い下関滞在期間とはいえ、よい人間関係を築ぃて、いろいろ楽しんでた龍馬夫妻の姿が想像できました(^_^)v
おわり
♪MUSIC♪
Анжелика Варум が、な~んとMoloko の "Sing It Back"
(2曲目) やってたので!2010ロシアんポップス第一弾!
Я лечу"Sing It Back"



