◆私は2019年3月末に聖書を読み始め7月末頃に悟り、救われたのは2019年11月になる。それから時間が経過して、この救われたときが悔い改めのラストチャンスでなかったことを悟った。
◆私は2019年7月末に悟ったのだが、悟ったとき天が開かれ光がさした。私ははっきりとその光景を見た。当時感覚に頼っていた私にたいして、神が感覚で分かるようにして下さり、そのことによって疑いようもないほどの決意と決心になって悟っていた。(詩編119:130)「御言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」。
◆水のバプテスマの数日後に、ジョンウォーラーのライフイズギフトが、これまで聞いたこともないようなものすごーく綺麗な音、声で天から聞こえた。
◆2019年の年末頃に聖書を読んでいるとき、「まさか自分が聖書をすごいと思う日が来るとはなぁ」と感嘆しながら呟いた。その時天から「YEAH!!」というような感じの大人数の喜びの声が聞こえた。(ルカ15:7)「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。
◆サタンが私の命をとろうと天の父に訴えたが、それが却下されたことを神から教わったため知っている。なぜそれを知る必要があったのかすら分かっていないが、そのことを知っている。
◆私が真理を悟り、水のバプテスマを受ける前、サタンは何億もするボートを私に差し出そうとした。これは神から悟りが与えられて知ったことである。ただこれには疑問が残った、なぜなら私は人生において一度たりとも「高級車」やボートを欲しいと思ったことがない。それを知っているはずのサタンが何故このような行動をしたのか、それは私にたいしてどうしたらよいか分からなかったゆえの行動だ。自分のついてきた嘘を誤魔化すため、どうしたら良いか分からないサタンが選択したことがそれだったのだ。恐らくボートどころか何でも私に差し出しただろう。誤解のないよう私は悪魔崇拝をしたことはない。
◆神が私を祝福するために御使いを人として遣わしてくださり、困っている人に1度施しをする機会を貰ったことがある。当時の私は多くの不当な妨害要素で施しが出来なかったが、あの体験は疑いようもなく、人ではなく御使いだっただろうと思っている。長くなるため状況環境を詳しくは言わないが、同じ体験をすれば殆どの人がそんな偶然あるわけないと思うような体験だった。
◆私は自分が正しいとされるために、神に自分自身のことをとりなししなければならなかった。その経験により、不当な負い目と不利な債務証書が無効化されることにどれだけ意味があるかも知ったし、神へ正当な主張をするということも覚えた。(イザヤ1:18)「さあ、われわれは互いに論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」。
◆買い物に行ったとき、美味しいものや良いものを神が私たちに自然と選択させてくれている。良いものをとって欲しいという神の思いを全ての人が受けている。私はこのことに気付いてもいなかったが、今までもこのことが起きていたのだと言うことを悟った。
◆自分が記憶している限りで、あれは神を知るきっかけだったなと認識している「神の時」が幾つかある。年月で言うと、2002年、2017年、2019年になる。恐らく神に聞けばもっとあったのだろうと思うが、私にあった神の呼びかけで覚えているのはこの3回になる。何が言いたいのかと言うと、他の人には一体どんな呼びかけがあったのだろうと気になった。呼びかけとは、あのときに真理を悟ってもおかしくなかったんだろうなという時を指している。
◆ある預言者の証によって、悪魔が第三の天にいる子供たちを見ている絵を見た。私はその悪魔が第三の天にいる子供たちを見ても、子供たちが幸せであることを認識出来ていないことが分かった。悪霊悪魔は、(哀歌3:17)「私は幸せを忘れてしまった」と哀歌に書かれている通り、幸せを忘れている。そのため第三の天にいる子供を見ても、幸せであることが分からない。幸せを認識するには、幸せを受けとることの出来る心がいる。その心がなければいくら幸せを与えられても幸せを感じることは出来ないのだと知った。
◆神はその御手を近くにいる人まで伸ばしてくれている。私はレジで並んでいるとき、後ろに並んでいた女性に突然解放が起きたことを見ている。神がその人に触れたことは間違いないが、私自身それを目の当たりにしたときは、女性に解放が起きたことは分かったが、特に気に留めていなかった。後々それを思い返したとき、私たち命の書に名の記された者の近くにいる人に、神が御心のままに触れて下さるということを知った要因になった。
◆悪霊悪魔にたいして、世界規模で第三の天からイエスの御名によって底知れぬ穴へ行けという命令を覚えた日かその次の日に、突然寝ているとき悪霊によって金縛りにあい、両肩を押さえつけられて、口から言葉をうまく出せないようにされた経験がある。これはそれ以降起きていないし、それまで一度もなかったことだ。このことが私に起きた理由は、悪霊の私への恐れによるものであり、「この男を押さえたままにしておきたい、でもどうしたら良いか分からない」という思いの現れた行動だったと思う。
◆(使徒行伝12:23)「するとたちまち、主の使いが彼を打った。神に栄光を帰することをしなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えてしまった」。ヘロデが神に栄光を帰さなかった結果虫にかまれて死んだように、獣、偽預言者、サタンも本来であれば神に栄光を帰さなければ、虫にかまれて死ぬことになる。実際にヘロデのこの一節を元に神に訴えれば虫にかまれて死ぬ。そうならないのは、神によって大言を吐くことを許可されているからに他ならない。(ヨハネの黙示録13:5)「この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二ヶ月のあいだ活動する権威が与えられた」。
◆悪が世を支配しているのは、私たち人が神によってふるいにかけられているから。悪を選ぶか、善を選ぶか、神は選択を私たちに与えて下さっている。悪に力をもたせないと、私たちは苦しむこともないため、救いを求めない。今の世に満足してしまう。
◆悪事がうまくいっていると人が思う時間は、悔い改めのための時間として神から与えられている時間になる。悪事はうまくいっていない。裁きまでの猶予として神から時間が与えられている。
◆(伝道者の書7:3)「悲しみは笑いにまさる。顔に憂い(うれい)をもつことによって、心は良くなるからである。」( ´・ω・` )
◆預言にも情報にも悟りがいる。悟りは主に求めなければ、御心以外では受けられない。(箴言2:6)「これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである」。
◆ダビデは低くされたから高くされた。獣、偽預言者、サタンは負ける。だから勝つことが許可される。負けなくてはその対価となる勝ちは得られない。ただで勝ちが与えられることはない。(ヨハネの黙示録13:7)「そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた」。
◆私はまだ経験をしていないので、迫害と試練に関しては一概に言えないところはあれど、信仰は楽しく、祈りは楽しい。どちらも「こんなことが起きるのか」、ということを楽しむことが出来る。これは真理を悟ったものだけが認めることが出来ることであり、悟ったものにしか楽しめない。知恵も知識も賢さも自分の力ではないと知っているため、それを誇ることもなく、良い状態で楽しむことが出来る。
◆神から知恵と悟りが与えられなければ、私たちにはなにも分からない。(ヨハネ福音書6:41)「わたしは天から下ってきたパンである」。これを聞いたユダヤ人は、それを理解する知恵も悟りも与えられていないのに、考えても分かることがないことを自分の悟りで理解しようとし、神の言葉につまづいている。人が目の前で自分のことをパンと言って、そのことを私たちが理解出来るわけがない。その人は目の前にいてパンではなく人なのだから当然だ。だから多くの弟子は、(ヨハネ福音書6:60)「これはひどい言葉だ」と言って離れて行った。目の前で多くの癒しのしるしを見て、権威ある言葉を直接聞いてきて、疑いようのない神の力を実際に目の当たりにしても、言葉でつまづいてしまった。信仰は言葉によらない、心に信じることによる。信仰とは心に信じること、信仰を持っているものは言葉につまづかない。
◆知恵には価値がある。世のものは全て対価を払えば得られるが、知恵を得るための対価は存在しない。知恵は神から与えられる以外に得る手段がない。(ヨブ記28:20)「それでは知恵はどこから来るか。悟りのある所はどこか。これはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にも隠されている。滅びも死も言う、『われわれはそのうわさを耳に聞いただけだ』。神はこれに至る道を悟っておられる、彼はそのある所を知っておられる」。
◆私たちはとにかく全てのことについて、出来ないと思ったことは出来るようになれるよう神に求める。(マルコ9:24)「信じます。不信仰なわたしを、お助け下さい」(ルカ17:5)「わたしたちの信仰を増して下さい」。
◆(エレミヤ10:21)「牧者たちは愚かで、主を求めなかった。それゆえ、彼らは栄えず、彼らが飼うものはみな散らされる」この言葉への解釈として。主を求めるものは自分の愚かさを自覚している、だから正しくあるために必ず神に求める。主を求めないものは、自分が愚かでなくなるには主の助けがいるということを自覚出来ていない。
◆偶然起こっていることはなく、全てのことには意味があって起こっている。「これは偶然起こっているのではない」ということの確信を持ったときから、私はこのことが本当に不思議になった。(イザヤ9:6)「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。
◆人の歩みも神の御手の中にある。私たち全てのこの世に生きている人間は、偶然たまたま世界中のあらゆる所に散り散りになっているのではなく、神によって全ての人間が御心のままに散らされてそこに導かれている。時代の変化も神の御手、技術の進歩も神の御手、明かされる技術も時代の流れも、この緩やかな変化は神にしか出来ない。私たちのような何も分かっていない存在が、時代にそして技術に、全世界規模で緩やかな変化をつけることは出来ない。時代と技術に変化をつけ、緩やかに進行させることが出来るのは神のみである。この緩やかな変化は私たちが突然の変化には耐えられないため、神の御手によってそうコントロールされている。(使徒17:26-27)「また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。」
◆元悪魔崇拝者の話は気をつけて聞いた方が良い。悪霊悪魔サタンは、嘘つきであり、真実を彼らに語ってはいない。だから元悪魔崇拝者が語る言葉には「主よ、私に役立ちそうなところを明らかにして下さい、悟りを下さい」など神に求めると良い。そうすれば必要なところが分かる。
◆聖書を読み始めて約4年経ったとき、旧約聖書と新約聖書は違うと実感した。古い契約と新しい契約の違いを感じるし、新約聖書は信仰者への分かりやすい道しるべと思う。具体的にどうすればよいかが、具体的に記されている。(ヨハネ福音書16:29)「弟子たちは言った、『今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません』」。
◆以下、2024年の12月末以降に記したこと、証など。
◆2024年12月13日に名古屋から大阪まで行き、バプテスマを受け水と御霊によって生まれ変わったとき、自分が主の御心でそこにいたことを知って驚いた。自分の意思でバプテスマを受けに行ったと思っていたのに、主に導かれていたことをその時知った。
◆サタンが告発者となり訴えるようになったのは、罪深いから。告発し訴えることは、重い罪であり、罪の奴隷であるサタンはその重い罪に導かれた。だから告発者になった。彼が望んだのではなく、考えたのでもない、罪が告発へと導いた。(ヨハネ8:34)「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」。
◆悔い改めて半年もしない内に、私は自分の召しを知った。そのことによって、自分の召しを知っておくと心構えが出来て成長していくんだなと、時間が経過したあとに感じた。
◆宣言の前に「私は勝利を宣言する」と言うと強くなる。
◆救われた人は特別と言うことを聞いた時、私は自分が救われるに値するとは思えないと感じていたことが分かった。ただ恵みのゆえに救われたことをより実感した。(エペソ2:5)「あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」。
◆私は自分の存在価値を考えたこともなかったし、自分をそれほど否定してきてもいない。ただ、私が多くの人から手を差し伸べられたとき、自分に手を差し伸べてくれることを理解出来なかった。そんな価値を自分には見出だせなかったからだ。そのことによりキリストの内に自分を見出していくのだと言うことを知った。(ピリピ3:9)「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」。(イザヤ43:4)「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。
◆天の父、聖霊、イエス様に救われた私は希望があることを知っていると実感した。不可能なことは何一つない。(ルカ1:37)「神には、なんでもできないことはありません」。
◆私の逆境の日々の中で主に求められていたこと、主を信頼し、主を信じること、主にゆだねること、まず神の国と義とを求めること。(伝道の書7:14)「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである」。(マタイ6:33)「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。そして逆境からの回復のあとに、自然とこの御言葉に至っていた。(ミカ6:8)「人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」。
(マタイ6:30-33)「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。
◆賛美などでも、「主にすべてを捧げます」と口にしていると、自然と主に相応しいものへ変えられていく。心から思ってないからこれは求められないとか、言えないとか、これはアーメンと言えないと思ったことがあっても、口にすれば主が変えて下さり自然と変化していっている。口にすることは心の素直さでもある。人を許すこともこれと同じで、口にすると主が変えていってくださる。(2コリント3:16-18)「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。
◆ものすごく良い夕礼拝を過ごしたあとに、教会から外に出て少し歩きだしたら、上を向いて少し見回して「あぁ世だ」と、ガッカリした経験がある。自分が世に生きていることを強く感じた。ホームパーティで倒れて天にあげられ帰ってきたアメリカの女性の証を思い出し「こんな気持ちだったんだろうな」と思い、その女性も同じようなことを言っていたことを思い出した。
◆すべては恵みと言う歌詞の讃美歌を聞き、当たり前のことなど一つもない、全ては主の恵みと知り、なにより優先することは神を礼拝し賛美することだと知った。神を礼拝し賛美することが、自分の生きる道であることを見出だしたと感じた。(詩編57:7)「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます」。
◆神の恵みをはじめて知ったとき、主が私の人生が辛かったことを「そんなことはない」と否定したり、嘆くことを責めているのではなく、ただ自分の人生は恵みゆえだったことを、愛によって教わったと感じた。
◆私は常に時のしるしを主に求め続けているのだけど、そんな中2025年1月中旬の礼拝で感じたこと。今の時代はキリストのために命を捨てるものたちがつくられている時、患難に耐えられる強いものがつくられている。決意、決心、交わっている人たちからも何か強いものを感じる。2025年は強い年だと思う。これは同じように世界規模で主によって進行している。
◆自分が通う集まり(教会など)の人に、相談をすると信仰の支え合いが起きて、支えて貰える。(ガラテヤ6:2)「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」。
◆当たり前のように会話に御言葉が出てくる信仰者同士の会話が、なんて有意義な時間だろうと思った。喜びと共にそう感じた。
◆水と御霊によって生まれ変わり暫くして、神の平安と平和を感じたとき、この御言葉が自然と出てきて、このことを実感した。(エペソ2:16)「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。(ローマ5:1)「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。
◆(伝道者の言葉7:16-17)「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか」。なにごともすぎない方が良いと知った私は、すぎないようにしようと言う意識を常に持っている。ただ、この御言葉を読んだら、賛美はすぎても大丈夫なのだと知った。(サムエル記下6:14)「そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた」。信仰も同じく、そうだと思う。
◆(1テモテ1:15)「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」。(ローマ5:6-8)「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。福音や伝道、キリストを伝えることにあたって大切な一節だなと感じたので、記しておきたい。
◆(ヤコブ1:3)「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである」。信仰が試され、忍耐が生じた経験をしてから暫くして、天の父、聖霊、イエス様を信じることに聖霊による喜びを感じるようになっていた。信じることを喜び、信じることが嬉しくなっていることに気付いた。
◆登録していたYouTubeチャンネルを久しぶりに見てみたら、やっぱり面白かった。たまには良いなと思ったあとに信仰の方に触れたら、世に触れたあとだったためか、信仰の方に聖さを感じた。世にあるものには見出だすことは出来ない聖さと、聖い喜びを、御言葉と祈りにたいして感じた。これは聖霊のお陰、賜物だと言うことも知った。
◆争い、敵対、分裂、戦い、偽りによる迫害など、あらゆる形で自分の人生から平安平和が遠ざかっていたため、優しさ、愛、平安、平和にまだ馴染めてないと思うことがあった。ただ、その中においても、信仰と主から来る喜びは何時でも素直に受け入れられていた。
◆(使徒3:25)「あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して、『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた」。(マタイ7:12)「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」。日本人がイスラエルの民(預言者の)末裔である証拠の一節、日本人は行いによってそうであると証言している。
◆真理を悟ってはいたが、悔い改めがまだちゃんと出来ていなかった時、罪が自分にやらせているというものを実際に体験した。罪によってやらされているとはっきりと感じた。(ローマ7:17.20)「そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。/もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」。
◆真理を悟ってから、水と御霊によって完全に生まれ変わるまで5年半ほどの時間を過ごした。その結果、生まれ変わってからの聖霊による自分自身の変化を、より実感することが出来ている。驚くことが度々あり、聖霊の働きはえぐいと感嘆している。(1ヨハネ4:4)「子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである」。私たちがアーメンと自然と言えていることも、聖霊のお陰になる。
◆祈っている時に感じ、思わず口に出していたこと。『私たちが信仰の道を歩めること、それが自分たちの力じゃないことにハレルヤ、主よ本当に感謝します』。(1コリント1:29)「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」。誇らないでいられることは恵み、そのことを聖霊が教えて下さった。(ヨハネ16:13)「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」。(使徒17:28)「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」。
◆ここで私が語っていることも、世界中で真理が語られていることも、信仰によって語られている。(2コリント4:13)「『わたしは信じた。それゆえに語った』としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである」。
◆自分が通う教会のステージで子供たちが賛美しているのを見て「なんて幸せな子たちなのだろう」と思ったことがある。幼い頃から主を知っていて、主と共に生きていける、この恵みを強く感じたためそう思った。それから暫くしてから、ステージにいた子供たちと同じように、自分も今は神の子なんだなと実感した。(ガラテヤ3:26)「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである」。(ルカ18:16)「するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、『幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である』」。
◆クリスチャンは主の御手を感じるため、偶然を偶然と思えなくなっていくのだけど、すべての道で主を認めるとより一層そうなっていく。(箴言3:6)「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。この言葉に信仰を持つと、世の中は主からの啓示としるしで溢れていることに気付くようになる。主は途方もないことを世界中の人(約80億人)の一人一人の人生になさっている。勿論それは人だけには収まらない。(ヨハネ福音21:25)「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」。(ローマ8:28)「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。
◆私の召しに関係してそうな一節。(イザヤ49:6-7)「主は言われる、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」と。/イスラエルのあがない主、イスラエルの聖者なる主は、人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、つかさたちのしもべにむかってこう言われる、「もろもろの王は見て、立ちあがり、もろもろの君は立って、拝する。これは真実なる主、イスラエルの聖者が、あなたを選ばれたゆえである」。
◆主の名によって集まる集まりは、例えその時「何かいまいちだったな」と思っても、あとで意味があったと実感する。だから信仰者の集まりに顔を出して損はない。そこに主がいて下さるためすべてを益として下さる。恵みは常に私たちと共にある。それに気付ければ(信仰を持てば)、恵みと感謝を自然と見出し、主に感謝している。(マタイ18:20)「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
◆私が信仰を持ったとき天が開かれ光がさした。「これはクリスチャンのお陰(でもある)」と、そのとき分かったのだが、そのことを数年ぶりに思い出した。「日本人が主を知るように、救われるように、悔い改めるように」どのような祈りだったかは分からないけど、その祈りの力もあって私は悔い改めに導かれ、真理を悟り救われたのだとそのとき霊において分かった。世界中のクリスチャンが世界中のために祈っている。祈りは口にすることに意味がある。何気ない発言のような祈りでも祈りは働いている。
◆祝福の意味を主に伺って明かされたこと。(ヤコブ1:17)「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない」。祝福とは「良い方から出る良いもの」、祝福とは「良いことが起こる基」祝福を祈ると良いことが起こる(そのきっかけになる)。
◆踏み絵に関する殉教者の話を聞いた時、踏み絵は主から来ていると分かった。悪霊悪魔サタンや人間からではない。そして踏み絵は聖霊によって踏めないことも分かった、自分ではなく聖霊によって踏めない。(詩編63:3)「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します」。
◆(マタイ10:23)「一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい」。クリスチャンは離れて(逃げて)、町のため、町にいる人のために祈る。そうすると主によって町が回復し、よい状態になり、主の時に町も町の人も救われる。離れると、祈りと主によって迫害状態が改善する。
◆(マタイ7:6)「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」。これは未信者だけの話ではなく、信仰の弱いクリスチャンや世の人と変わらないようなクリスチャンにも同じであり、あまり正しいことを彼らに言うと、振り向いて噛みついてくる。だから私たちは言葉で説得をする前に、その人のためにまず祈る。祈れば自然と改善される。何をするにも、まず先に祈る。
◆とりなし、祈りの参考に。傷は主の愛で癒される、罪はイエス(主)の血潮であがなわれる。どのような人の罪も自分の悟りで判断せず主に委ねる、私たちは正しいことを知る方に委ね、とりなし、祈る。(ヤコブ2:13)「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ」。
◆(ローマ14:13)「ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい」。(エペソ4:31)「すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい」。この御言葉を例として「捨て去ります」に変えると宣言、決心になる。決心は強く働く。これは御言葉だけでなく、宣言、告白、決心はあらゆることで自身を支え役立つ。主への意思表明にもなる。
◆御言葉による告白、宣言。(2コリント5:16)【私は今後人間的な標準で人を知ろうとはしません】(2コリント5:17)【私はキリストのうちにある新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました】(コロサイ3:9)【私は、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです】(ガラテヤ5:24)【キリスト・イエスにつく私は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです】(ガラテヤ3:26)【私は、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです】(1ヨハネ3:2)【私は、今すでに神の子どもです】(2コリント4:18)【私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目をとめます】(ガラテヤ5:6)【キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです】。
◆(マラキ4:4)「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである」。クリスチャンがモーセ五書を読む理由の一節、クリスチャンは霊的にはイスラエルの民。モーセ五書は基礎となるものであり、読むことで基礎(土台)がしっかりする。モーセ五書【創世記、出エジプト、レビ記、民数記、申命記】。
◆聖書は朗読(声に出して読むこと)が良い、朗読は普通に読むよりも記憶に残る。朗読は主に勧められている。(1テモテ4:13)「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい」。朗読とは=宣言、御言葉の宣言は預言。御言葉の朗読は自らに預言をする行為。御言葉を宣言することは=預言の宣言。自らだけでなく何にたいしても誰にたいしても意味がある。預言をすることで、真理の言葉により真理によって支えられる、勇気づけられる、改善される、御言葉通りになる。
◆朗読をすると御言葉の価値と、御言葉の聖さを感じる。
◆(ルカ6:41-42)「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁(ハリ)には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです」。(1ヨハネ2:9-11)「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです」。梁とは罪。人の罪と負債を許す、そうすると自分の罪と負債が見えるようになる。罪と負債が見えるので悔い改めも出来る。
◆異言がクリスチャンに与えられる理由は、御霊による新しい契約(保証)の証明。バベルの塔が建てられた頃、全地は同じ言語を話していたが、神に反逆し散らされる要因となった。異言は同じ言語を話しても良い許可を得た証、それは御霊による保証。(創世記11:1)「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。~(創世記11:6)【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。(11:7)さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(11:8)こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。(11:9) それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである」。
◆毎日聖餐式をする生活を暫くしてみると、イエス様が十字架でなさったことを霊に感じ、真理によって理解を深めることが出来る。感謝の思いが増す。(1コリント1:23)「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」。イエス様の十字架を宣べ伝えるには、十字架を知る必要がある。聖餐式によってその十字架への理解が深まる。私たちは御霊によってのみ、主のなさった十字架の重さを受け入れられる。(マタイ21:44)「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます」。
◆国際教会に所属して分かったこと、本来であれば私たちは一致出来ない。一致出来ているのは御霊のお陰。これはとんでもないことだと分かった。
◆自分に起こった悪いことをそのまま悪いことと認識し続けるならば、悪いことはそのまま変わらず、悪いこととして残り続ける。その悪いことにすら意味を見出だし、主に感謝するならば、それは光となる。(エペソ5:14) 「明らかにされたものは皆、光となるのである」。自分のはかれる理屈ではなく、全てのことについて無条件で主に感謝し続ける。
このことに御言葉が示すもの。
(箴言12:14)人はその口の実によって、幸福に満ち足り、人の手のわざは、その人の身に帰る。
(箴言18:20)人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。
(1テサロニケ5:16-18) いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
(箴言16:20)
慎んで、み言葉をおこなう者は栄える、主に寄り頼む者はさいわいである。
(ヤコブ1:25)
完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。【感謝も行いになる】
(箴言3:6)「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。(黙示録22:13)「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」。これまでの人生全ての道で主を認めると、私たちの人生の初めから終わりまで主が真っ直ぐにして下さる。
(ヤコブ1:23) おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
◆(イザヤ43:4)「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。【主の目には、私は高価で尊い。主は私を愛している】(1ヨハネ4:19)「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」。【私は私を愛しています。神がまず私を愛してくださったからです】(ローマ8:38)「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。★(ガラテヤ5:14)「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」。【お三方から愛されているものとしての自覚が、自分を愛することに繋がり、隣人を愛することに繋がる】この愛への理解は、自分への愛、他者への愛、神への愛、全て同時進行で理解を深められる。何処かが成立したら次にいけるのではなく、同時進行。
◆世界中のクリスチャンの祈りは、常に私たちに働き、私たち一人一人を助けている。私たちクリスチャンは常に支え合い助け合っている。(ガラテヤ3:26-28)「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」。
◆明かされたこと。永遠の滅びで人や悪霊悪魔はどうなるのか、額に666と記された全身真っ黒の、焼け焦げた存在になる。名前も消える。言葉もなくなる。全ての存在が人格、名前も共に消え、永遠の火と硫黄の池で焼かれる真っ黒の、焼け焦げた666という存在になる。
◆(1コリント1:27)「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者(である私)を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者(である私)を選ばれたのです。1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者(である私)を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいもの(である私)を選ばれたのです。1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」。【この朗読はへりくだりを学べる】