~ビールを片手に~ -8ページ目

~ビールを片手に~

人生についてちょっと真面目に考えたい人のブログ

昨年の終わりから今年に入ってからというもの、なんとも慌ただしく、落ち着かぬまま、

気付いてみれば、3月に入っていたことに驚いた。

その間にも様々なニュースには常に触れていたものの、自身の性癖である

「人との何気ない会話の中から、己の考えを抽出し、意を形成する」という部分において、

やや物足りなさがあったためか、イマイチ感覚を刺激されることがなかったため、

どうにも書くに及ばずの心持ちでここまできてしまった。

もう少し言うと、毎日毎日テレビに映る、野田総理及び、その取り巻き連中の

異様な顔つきやいい加減な言葉遣い(遊び)を見聞きしているうちに、自分の心までが、

どうにでも勝手にしておくれという気分になっていたのは事実である。

なんでもいいから、どなたか動機づけをください(笑)


さて、どうでもいいニュースの中から、今最もどうでもいい話を取り上げると(笑)

オセロの中島さんと霊能力者の家賃滞納問題。

これが連日のトップニュースで、しかもこれが今一番に視聴率が取れる話題だというんだから、

勝手にしてくれの気分になるのは至極当然なのだが、それでもこれに多くの人が関心を抱く

ところに、決して悪い意味ではなく人間の人間らしい汚さ・意地悪さが垣間見えて

面白いと思っているのだ。

テレビ関係者が家の前に張っているのは、中島さんの顔をおさえたいから。

でもテレビの前の視聴者もまた、顔が見たいのだ。

なぜか?

おそらく、それまで普通に生活し、日常を送っていた人間が、凋落していく時の

表情や姿に関心があるからではないか。

ある種、ごくごく普通の人間が歯車が狂って例えばレールから、人の道から落ちていく

というのは小説でもよく扱われるテーマでもあるように、人の興味を誘う。

それは、自分もまた、ひょんなことからこうなるかもしれないというような恐怖感、

でも、今はそうでない自分を再確認することで得る安心感、こういったものが、

人間の心の底に眠る普遍的感情として厳然とあるからだと思う。

これは、過去に統一教会やオウム真理教の事件が世間の関心を集めたのと似たような心理

だと言える。

中島さんのその後のことは詳しくは知らないが、聞いた話では、今に至る経緯で

どんどんと身近な人を遠ざけていったという。

オウムの件もそうだったが、一人間が社会との交際を断って生きていく事が、

その精神の平衡を失わせることに最も有効な方法であることは明白であると考えれば、

その個人自らが、時に煩わしさを伴う人間関係を切り捨て、より平易で気楽な関係にのみ

身を任せる現代社会の有り様は、まさしく真っ当な精神の自主放棄による集団自殺なのだと

結論するしかないのである。
一昨日の晩に急激な吐き気で目が覚め、

その日は朝まで苦しみながら、病院へ行ったら、

ノロウィルスではなく急性胃腸炎だそうで…

年末に予定していた酒逹は早々にキャンセルです。

しかしながら、明日まで仕事なわけで、

その上、このタイミングで母君宅にてまたも

留守番を頼まれ、そして身近な人の訃報ありと

オレの心と身体は今傷付きすぎているため、

今年のブログはこれにて(おそらく)終了。

皆さんもお身体には十分すぎるほどお気をつけください。

オラ、ちょっち寝るっちゃ
先日までのブータン国王、王妃の来日を、日本のテレビでは

連日『国民総幸福量(GNH)』という言葉と共に好意的に報じていた。

アントニオ猪木似のワンチュク国王の国会での演説は日本への

励ましと敬意が十分に感じられる内容で、非常にありがたいと共に、

しかし、なんともこそばいような恥ずかしさを覚えたのも確かだ。

持論ではあるが、『民主』主義などという数の論理を基にした愚衆制を

まるで絶対的価値であるかのように有り難がる風潮を目の当たりに

し続けている者からすれば、最もよい政治体制は『緩やかな独裁制』である

というオレの気持ちは今のところ一切の揺るぎはない。

今回の来日で、あれだけ日本国民が歓迎したのは、政治的アプローチのない

来訪であったことは抜きにすれば、ノスタルジーがあったのだと感じた。

国王の大変に素朴で実直な人柄や気遣いに加え、王妃の控えめでおしとやかな

姿勢が垣間見えたことで、羨ましく、懐かしくもあり、しかしながら

既に喪失した空しさを感じるという心持ちだったのではないか。

約70万人という少ない人口であり、一人当たりの国民総所得が15万円

という国にあって、分相応に慎ましく生きることを忘れ、必要なものではなく

欲しいものを欲しいだけ手にしたがる日本という国を、今回国王は

どう見ただろう。

果たして、心の底から羨ましいと感じただろうか。

それとも、文明の精神的退廃を感じただろうか。

前回の記事にも書いたように、普通に生きることが難しいだけでなく、

誰もが公的にも私的にも特別であらんという錯覚に陥った日本人が

自問すべきことはまさにこういうことではないのか、と思うのだ。

最後に、そんな中で、十分に常識的感覚を持っていたが故に

普通の日本人の枠から外れた、真に特別な才能を持った巨星・立川談志さんが

お亡くなりになられた。

気骨があり、饒舌で、老いてなお柔軟な発想で、日本の伝統精神、文化とは

なにかを落語を通して常に問うていた非常に稀有な才能を持った人だった。

一部には、散々人に迷惑をかけて好き放題やってきたなどと言う者が

いるようだが、彼らはさぞかし、品行方正な聖人君子が何かか、

若しくは温室育ちでぬくぬくやっていた方々なんだろう。

フランス革命以来の、過剰な近代主義と進歩主義、技術への傲慢さに対して、

いつまでも人間は不完全であり、それを取り巻く環境もまた不完全であって、

だからこそ、必死にその精神のかじ取りを行うなかで生まれ出る人間の

間抜けさや滑稽さを甘受しようという人間観には大いに影響を受けた。

また一つ日本がつまらない世の中になるのではないかと心配になり

寂しくなった。

ご冥福をお祈りします。
お笑い芸人の猫ひろしがマラソンでカンボジア代表としてロンドン五輪を目指すという

ニュースがあった。

サッカーの世界では、他の二重国籍が認められている国などでは、選手自身が天秤にかけ、

ワールドカップや五輪に出場できそうな国籍を選ぶというようなことも多々あったり、

かつて植民地であった国では、本来の国籍ではない生まれ育った元宗主国側の国籍を

選択することもある。

日本においても、かつてはラモス瑠偉から闘莉王、最近では李忠成やハーフナー・マイクなど、

本来の国籍ではなく日本国籍を選ぶ選手も多くなってきた。


しかし、それにしても、今回の一件については、なんとも腑に落ちない。

その違和感を一言で言うとすれば、

「たかがスポーツごときのために、国籍をそう易々と変えれるものか?」

という思いである。

当然、オリンピックなりワールドカップでもいいが、スポーツ選手がそれを各自の夢として

抱く気持ちは理解はしている。

それでも、この件を「グローバリズムの良い面である」とか「国境の壁が低くなった」

と片付けるのは安易に過ぎないかと感じるのだ。


日本では多重国籍は認められていない。

そんな島国の中で、それこそ文字通りの戦争、紛争もない国では、国籍を意識する

機会はほぼないかもしれない。

しかし、日本に限定して言えば、在日朝鮮人や、他国からの移住者の二世などは、

国籍を選択する必要に迫られる時が来る。彼我の歴史的対立や文化的背景を考えれば、

その時の葛藤たるや、我々の想像を超えるものもあるはずなどである。

だからこそ、その自らの内なる感情の相克の末に日本国籍を選んでくれた者には、

日本人としての義務を負う代わりになにがしかの権利も享受できるようになっている。

それによって、一国民としての責任を強く意識する機会も得るのだろうと思う。

ところが、その感覚を当の日本で生まれ育った者たちが考える機会がないのだ。

それが、時に日本に住む「元外国人」を【日本人より日本人らしい】と形容したり、

在日などある種の被差別者の方がよほどに日本のことを考えていると感じる理由ではないか。


そういったことを考える時、先にも言ったように、たかが一個人の夢ごときで、

ましてや家族も日本に残し、そこに永住するでもない程度の覚悟でただ国籍を取り易い

という理由で国籍を変えるような行為に、日本人もカンボジア人も誰も心から拍手を

送ることはできないのではないかと感じるのだ。

国籍とは、単なるアクセサリーのようにコロコロと付け替える類の物ではなく、

その人のルーツや根源にある物を思い起こさせ、それに対する責任を伴わせる物

であるはずなのだから。

今年の1月にTPPについての記事を書いた。


この時点から、既に当時の菅首相はアメリカの要望そのままに推進していくつもりだったが、


その後の東日本大震災の影響もあり、完全に頓挫していた。


しかし、ここで再度、野田総理がAPECにて協議への参加表明をしてしまったため、実現は


間近に迫っており、世の中の関心事となっている。


反対する理由については、現在多くの論が溢れているため、以前書いたものを参考にして頂くとして、


今回は違った観点から考えてみたい。



そもそもTPPの問題点は、推進派が喧伝する農業の問題だけに留まらない。


TPP参加のメリットに牛丼の値段が安くなりますとかほざいていたテレビ番組は論外。


郵貯などの金融資産のみならず、日本人の雇用、食の安全、そして世界に誇るべき制度である


国民皆保険の医療制度に至るまで、幅広くあらゆる分野が対象となっている。


実際、野田総理は全ての分野を議論の俎上に乗せる約束をしてしまったらしい。


ここでも推進派の連中は、国際競争の必要性だの、規制緩和だのの必要性を叫ぶのだけれども、


一体いつになれば、アメリカ流の競争原理が万能ではないどころか、国家自体の根幹を揺るがす


ような事態をもたらしてしまうことを学ぶのか。


1%の人間が、国家の富の4割近くを独占するような社会が、本当によい国家であると思い、


それがどういう結末に至るのかへの想像力すらないのか。



今の日本に、というよりいつの時代であっても、国家が尽力すべきことは、社会を安定させることである。


社会が安定するためには、生活に必要な物の値段は安定的であり、適正でなければならない。


なぜなら、コメの値段が昨日の5倍になったり、風邪をひいただけで何万もとられる医療では


安定した生活など見込めないからだ。


その上で、さらに物を買うにも、来月幾らのお金が入るかもわからないのでは安心して売買ができない


のだから、労働者に対する賃金も一定の期間においてはある程度の安定性が保たれなければいけない。


それらが守られるという前提がなければ、資本主義であろうと他のどういう経済システムであろうと、


すぐに破たんをきたすのは目に見えているのだ。


ところが、TPPに加入すれば、生活必需品の物価安定や雇用の安定どころか、雇用の有無すら


怪しくなってくる上に、国産の物の値段は高騰し、まさに食の安全すら一部の金持ち以外は


選択できない世の中となっていく可能性が高くなる。



そこで重要だと思うのが、今年の大震災及び津波を経て、様々な経験をした我々日本国民が、


果たしてどういった社会像を思い描き、望むのか。


いきすぎた資本主義の果てに、たどり着いてしまったこの時代に、今一度自分達を姿を見直す


精神が残っているかどうか、である。


かつては、ごく普通の生活にごく普通の幸福を感じて慎ましく生きる多くの人々が支えて、


戦後の日本は少なくとも経済的には目覚ましい成長を遂げた。


その一方で、アメリカニズムとも言うべき自由主義、主にアメリカ文化への過剰な適応によって、


精神的には原爆を投下されたその相手に媚びへつらい靴を舐めるような屈辱を自ら受容もしてきた。


このまさに、戦後最大の岐路に立った日本人が、それでもさらなる伝統精神の忘却と破壊を進め、


市場原理主義にならって生活することを望むのならば、その崩壊する様を静かに見届けるのも


また一興と開き直るしか仕様がないと思っている。


しかし、自分達の周りに、生まれ育った故郷に、そしてそれを包括する国家の体系の中に、


将来にわたって保守すべきものはないかと考えるのが真っ当な国民の在り方だと思うのならば、


決して他国へ国体ごと売りさばく政治体制に迎合すべきではないはずである。


普通な生き方をしたいと願う人々を、それすら許されない社会へ放り込もうとしているのは誰か、


いい加減目を見開いて、見定める必要がある。