このブログを始めたのが、2009年10月。
かれこれ、ちょうど6年が経ちました。
きっかけは、大学生時代もろくにパソコンを触ったことがない私が
仕事であれこれ覚えなくてはならなくなり、しかし、興味もなく難しい。
そこで、自分の中にある『思考錯誤』の顛末を書き留めておいて
その歳その時の自分が何を考えているかを思い起こすのも面白そうだと
考えたからです。
その間、転職もあり、人生の転機もあり、別れもあり出会いもあり、
6年間を経て、自らの有り様がどう変わったのかをすごーく浅ーい部分を
確認してみようと思います。
【新たに関心を持ったこと】
・絵画鑑賞
・演劇鑑賞
・食べること
・健康寿命(笑)
・サバイバルゲーム
・スマホ←これは過去の自分からすれば革新的な出来事です!
そもそも当時はなかったしね(笑)
1年半前にやっとこさ変えました。
【興味を失いつつあること】
・サッカー(観戦のみ)
【何も変わっていないこと】
・おいしいタバコ
・楽しいお酒
・映画鑑賞
・エロに対する異常なまでの嗅覚
・楽しいおしゃべり
こうやって並べてみると、出ていったものより、入ってきたものの
方が多い!(毎月のお金も出て行くほうが多いのは考えものです。。。)
なにより、なにか常に追い詰められたように焦燥や不安を抱えていて
ピリピリとしていた20代を過ごしたからこそ、今が常に一番楽しいと
思えるようになったのは、生来の悲観主義者からすると大きな一歩だと
思います!
今も仕事やプライベートでも、切羽詰るのは変わらない。
でも、心構えは歳を重ねた分、確実に強く(図太く?)なったのだ。
だからこそ、言える。
若い時こそ苦悩せよ、と。どうせ、その時々で違うタイプの苦悩がまた
待っているのだから、それなら、丸ごと受け止めてみたほうが楽しい。
個人的には、苦しさ8:楽しさ2.これが人間の黄金バランスだと思っている。
だからこそ、楽しさを3にするために、人間は長くも短い人生で、あえて
努力を選択するのだと思うからだ。
さて、新たな苦悩を受け止める楽しみ(という人生にも包括されている二律背反)
に囲まれた日常にまた明日から踏み出してみようかな。
仕事のパソコンの電源をオフにして。
このブログ、つまり俺が言いたい事の要旨はただ一つ。
現実”主義”と開き直るのも、理想”主義”に逃避するのも
バランス感覚という難題からの逃亡であり、
保守や左翼などという思想の次元以下の唾棄すべき幼稚な
ものだ。
正論という名の過剰なる同調も、想像という名の妄言の
どちらにも正統と呼べるものなし。
なればこそ、相反する、矛盾する数多の道理なき道道を
フラフラしながらでも渡り切らんとする気概を保ち続けようと
する精神性こそが、人間を人間たらしめる思想のスタートライン
なのだと思うのだ。
つまらないはずが、少し、酔った。
お久しぶりの更新です。
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
相当な期間、放置してしまった当ブログですが、引き続き、宜しくお願い致します。
テレビをきちんと見なくなって久しい私ですが、この年末から年始にかけて随分と
見る時間を意識的に増やしています。
CMも含め見ていると、結構世の中の流行り廃りの流れや、プッシュしたいのだろうモノ・コト
が発見できて面白いのです。
最近ニュースで多く取り上げられているのは、フランスのパリの週刊誌「シャルリー・エブド」
襲撃事件でしょうか。
イスラム教の祖ムハンマドを風刺したことで、おそらくイスラム団体の過激派から襲撃され
12人が死亡した事件です。
ニュース番組を見ていると、たいていの論調は
「なぜこんな悲劇が」「テロは許されない」「言論の自由に対する攻撃だ」「宗教間の対話を」
といったところでしょうか。
確かに一般の人間を巻き添えにする可能性もある殺人行為は良しとはできないだろうし、
言論上対立する相手への報復は、愚ろかな行動であることも否定はできないでしょう。
けれども、少し考えてもらいたいのです。
例えば、日本でも有名なアイドルグループやその他芸能人、スポーツ選手などを
テレビ番組などで皮肉まじりにネタにされたり、ちょっとひねた意見を述べようものなら
ネットでの炎上や誹謗中傷を含んだファンと安置同士の過激なやり取りはよく見られる
光景となっています。
アイドルは偶像やアイコンといった意味があることを考えれば、ある種宗教に似た
崇拝、信仰性を持つ行動様式であり、その否定はその人自身の根底にあるアイデンティティー
への批判と捉えられることもしばしばです。
そうであるならば、己の信仰心の対象であり、行動原理であり、生活の基盤となる宗教を
批判、皮肉られたとなるとその怒りは想像しやすいのではないでしょうか。
そして、それを受けた人間がその信仰心に基づいた異常な行動力と物理的な武器を
持っているとすれば、今回の彼らの犯行はそれほど不思議なものでもないのです。
それどころか、忠誠心を内外に示すという意味においては、たいへん理にかなった
事と言えます。
新聞社側の問題として言えば、彼らは公的な立場として、全世界に発信する権利を持つと
同時に、それに対する責任も持っていると考えるのが妥当でしょう。
これも日本を例にとれば、朝日新聞社の慰安婦捏造記事(ここでは私の立場としてあえて
捏造と断言させていただく)とて、朝日新聞が嘘証言とそれを信じたいがためにろくな
検証も取材もせずに全世界に発信し続けたにも関わらず、それに対する責任が国内で
チロッと申し訳程度に(言い訳がましくも)謝罪するといった体であるからこそ、既に
国民からの信任を失い、今や言論機関としても信用に値するものではなくなっているの
ではないでしょうか。
これと同様の、公的言論機関特有の傲慢さが垣間見えてしまうのは、「ペンは剣(武器)よりも
強し」であれば、その強さは時に弱き「剣」からの反撃を受けたり、真の弱者を傷つける
ということも大いにあり得るのだ、という認識不足からかもしれません。
ただただ、強者として尊大に主張し、振る舞い、配慮に欠け、権利を傘に自己防衛に
専らするということであれば、どんな偉い人間でも反発を受けるのは当然のことです。
このテロ行為も弱者による、「自己の正当性を賭けた必死の抵抗」であると考えれば
人間としての真っ当な行動だとも思うのです。
最後に、「宗教間の対話」という言葉の詐術。これに触れておきましょう。
そもそも、宗教とは排外的、排他的なものであるというのは歴史的に見ても明らかです。
また、対話というのは、両者間に譲歩の余地があり、譲り合うことで互いが利する可能性が
ある際に使われるためのコミュニケーションツールです。
ところが、宗教には1位や2位といった序列はなく、それぞれが独自的、絶対的な価値判断
のもとに構成されています。
キリスト教が神道と話し合い、あらゆるものに神が宿っていることを是とすることは
ありえませんし、イスラム教とユダヤ教が互いの神も神と認めるなどということも絶対に
ないのです。
ですから、宗教間の対話という言葉自体が矛盾を持ったものであり、非常に戦後日本的な
ノーテンキな宗教観であると感じざるを得ません。
こういった宗教対立を軸とした争い事は今後も必ず起きてくるでしょう。
それに対する有効でなおかつ現実的な対応は、国家や宗教に内包される歴史や文化の
違いへの認識を深めた上で、そういった多分にアンバランスな状態で国家間なり、宗教間なり
は並立しているのだという危機意識を忘れないことだけなのです。
国境なき世界や経済(グローバリズム)などと言った、世界の平板化という蛮行を夢想する
ことこそ、世界を自国を危険に陥れるということに思いを致すことが重要であるはずです。
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
相当な期間、放置してしまった当ブログですが、引き続き、宜しくお願い致します。
テレビをきちんと見なくなって久しい私ですが、この年末から年始にかけて随分と
見る時間を意識的に増やしています。
CMも含め見ていると、結構世の中の流行り廃りの流れや、プッシュしたいのだろうモノ・コト
が発見できて面白いのです。
最近ニュースで多く取り上げられているのは、フランスのパリの週刊誌「シャルリー・エブド」
襲撃事件でしょうか。
イスラム教の祖ムハンマドを風刺したことで、おそらくイスラム団体の過激派から襲撃され
12人が死亡した事件です。
ニュース番組を見ていると、たいていの論調は
「なぜこんな悲劇が」「テロは許されない」「言論の自由に対する攻撃だ」「宗教間の対話を」
といったところでしょうか。
確かに一般の人間を巻き添えにする可能性もある殺人行為は良しとはできないだろうし、
言論上対立する相手への報復は、愚ろかな行動であることも否定はできないでしょう。
けれども、少し考えてもらいたいのです。
例えば、日本でも有名なアイドルグループやその他芸能人、スポーツ選手などを
テレビ番組などで皮肉まじりにネタにされたり、ちょっとひねた意見を述べようものなら
ネットでの炎上や誹謗中傷を含んだファンと安置同士の過激なやり取りはよく見られる
光景となっています。
アイドルは偶像やアイコンといった意味があることを考えれば、ある種宗教に似た
崇拝、信仰性を持つ行動様式であり、その否定はその人自身の根底にあるアイデンティティー
への批判と捉えられることもしばしばです。
そうであるならば、己の信仰心の対象であり、行動原理であり、生活の基盤となる宗教を
批判、皮肉られたとなるとその怒りは想像しやすいのではないでしょうか。
そして、それを受けた人間がその信仰心に基づいた異常な行動力と物理的な武器を
持っているとすれば、今回の彼らの犯行はそれほど不思議なものでもないのです。
それどころか、忠誠心を内外に示すという意味においては、たいへん理にかなった
事と言えます。
新聞社側の問題として言えば、彼らは公的な立場として、全世界に発信する権利を持つと
同時に、それに対する責任も持っていると考えるのが妥当でしょう。
これも日本を例にとれば、朝日新聞社の慰安婦捏造記事(ここでは私の立場としてあえて
捏造と断言させていただく)とて、朝日新聞が嘘証言とそれを信じたいがためにろくな
検証も取材もせずに全世界に発信し続けたにも関わらず、それに対する責任が国内で
チロッと申し訳程度に(言い訳がましくも)謝罪するといった体であるからこそ、既に
国民からの信任を失い、今や言論機関としても信用に値するものではなくなっているの
ではないでしょうか。
これと同様の、公的言論機関特有の傲慢さが垣間見えてしまうのは、「ペンは剣(武器)よりも
強し」であれば、その強さは時に弱き「剣」からの反撃を受けたり、真の弱者を傷つける
ということも大いにあり得るのだ、という認識不足からかもしれません。
ただただ、強者として尊大に主張し、振る舞い、配慮に欠け、権利を傘に自己防衛に
専らするということであれば、どんな偉い人間でも反発を受けるのは当然のことです。
このテロ行為も弱者による、「自己の正当性を賭けた必死の抵抗」であると考えれば
人間としての真っ当な行動だとも思うのです。
最後に、「宗教間の対話」という言葉の詐術。これに触れておきましょう。
そもそも、宗教とは排外的、排他的なものであるというのは歴史的に見ても明らかです。
また、対話というのは、両者間に譲歩の余地があり、譲り合うことで互いが利する可能性が
ある際に使われるためのコミュニケーションツールです。
ところが、宗教には1位や2位といった序列はなく、それぞれが独自的、絶対的な価値判断
のもとに構成されています。
キリスト教が神道と話し合い、あらゆるものに神が宿っていることを是とすることは
ありえませんし、イスラム教とユダヤ教が互いの神も神と認めるなどということも絶対に
ないのです。
ですから、宗教間の対話という言葉自体が矛盾を持ったものであり、非常に戦後日本的な
ノーテンキな宗教観であると感じざるを得ません。
こういった宗教対立を軸とした争い事は今後も必ず起きてくるでしょう。
それに対する有効でなおかつ現実的な対応は、国家や宗教に内包される歴史や文化の
違いへの認識を深めた上で、そういった多分にアンバランスな状態で国家間なり、宗教間なり
は並立しているのだという危機意識を忘れないことだけなのです。
国境なき世界や経済(グローバリズム)などと言った、世界の平板化という蛮行を夢想する
ことこそ、世界を自国を危険に陥れるということに思いを致すことが重要であるはずです。
っていう報告です(笑)
随分ご無沙汰していたブログをそろそろ再開しようかなと。
poohさんにも、お言葉いただきましたように
言いたいことは溜まりまくりです(笑)
政治論から価値論、下ネタまであれこれ綴ってみたく。
変わらず、人生をちょっと真面目に考えるをテーマに。
今年で31を迎える私の徒然草に、再度お付き合いくだされば
幸いです。
東京都議選も終わり、次は夏の参議院選挙。
これまで、このブログでも「自民党の一部にはまともな政治家がいる」
と書いてきた手前、現安倍政権へのTPP参加を含む言動に関して
少なくない不信感と危うさを感じていることもあり、それらについて本当は
書くべきだと思っている。
しかしながら、このすっきりしない空模様と同じく、自分の気持ちもなかなか
乗って来ず、手が伸びないので、今回は最近考えていた事について徒然なるままに
書いてみたい。
そのテーマは【感動】だ。
今の世の中は、「感動」で溢れかえっている。
特に、テレビや歌はもうバーゲンセール状態で、そのせいで、老いも若きも
その本来の重さを軽んじているように思われる。
SNSなどでも、シェアなどといって感動を押しつけられたりするのは、おそらく
現代人の感動のハードルがグッと下がっているからなんだろう。
辞書によれば、感動とは
【ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること】
とある。
ここから解釈するならば、感動とは本来は、「深い」、つまり自身の深層にある
心理や心の機微、琴線に触れることで「感」=「思い」が動か「される」ものであって、
決して感情の浅い部分をなでられて起こる物でも、意図的に動かす物でもないはずだ。
なので、テレビなどで「これは感動の物語です」とか言っているのを聞くと、
余計な御世話だよ、とへそ曲がりのオレは思ってしまう(笑)
今でも思い出されるのは、就職活動で四苦八苦していた学生時代に、
母親に言われた言葉である。
「面接なんて、誰もみな模範解答を言うから、大差はない。ただ、差が出るとするなら、
その人がどれだけ、今までの人生で感動することができたかじゃないかなぁ。
それが表情や言葉に現れて、その人の魅力になるのよ」と。
その言葉を実感できたのは、実はごく最近のことだ。
オレは、その時なんとも言われぬ感傷的な気分だったので、過去に見て
感動した映画や動画や本を見返してみた。
しかし、感心はしたものの感動をすることはなかったのだ。
これは驚きだった。なんせ、自分にとっての鉄板ネタのようなモノだと思っていたから(笑)
そうやっていくうちに、ふと思い、そして深く考えた結論は
『感動というのは、自らの積み重ねてきた人生の影を映し出す瞬間だ』
ということだった。
人は、歳(年)と共に成長するゆえに、逆に悩んで立ち止まったりもする。
当然、それと同時に、感性も磨かれたものもあれば、失ったものもあるはずなのだ。
そうであれば、自身に感動をもたらすものも変わっていくし、またそれを必要とする
場面も変わっていくのが当たり前である。
つまり、その時味わった感動とは、その瞬間に切り出された自身の背負ってきた経験を
心で振り返る代弁行為であり、それは幸福も痛みも経験した人間のみにもたらされる
ものなのだ。
だからこそ、その一瞬しか感じることのできない思いを忘れぬよう涙で刻み込まれ、
その積み重ねが、その人自身に心の深みや余裕をもたらしてくれる。
これから自分がどれだけ心を動かす出来事に出くわすかは全く予想もつかないが、
それでも、素直に気持ちに身を委ねながら生きていくことが、人生を楽しむ一つの
方法なのだと納得してみたい。
これまで、このブログでも「自民党の一部にはまともな政治家がいる」
と書いてきた手前、現安倍政権へのTPP参加を含む言動に関して
少なくない不信感と危うさを感じていることもあり、それらについて本当は
書くべきだと思っている。
しかしながら、このすっきりしない空模様と同じく、自分の気持ちもなかなか
乗って来ず、手が伸びないので、今回は最近考えていた事について徒然なるままに
書いてみたい。
そのテーマは【感動】だ。
今の世の中は、「感動」で溢れかえっている。
特に、テレビや歌はもうバーゲンセール状態で、そのせいで、老いも若きも
その本来の重さを軽んじているように思われる。
SNSなどでも、シェアなどといって感動を押しつけられたりするのは、おそらく
現代人の感動のハードルがグッと下がっているからなんだろう。
辞書によれば、感動とは
【ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること】
とある。
ここから解釈するならば、感動とは本来は、「深い」、つまり自身の深層にある
心理や心の機微、琴線に触れることで「感」=「思い」が動か「される」ものであって、
決して感情の浅い部分をなでられて起こる物でも、意図的に動かす物でもないはずだ。
なので、テレビなどで「これは感動の物語です」とか言っているのを聞くと、
余計な御世話だよ、とへそ曲がりのオレは思ってしまう(笑)
今でも思い出されるのは、就職活動で四苦八苦していた学生時代に、
母親に言われた言葉である。
「面接なんて、誰もみな模範解答を言うから、大差はない。ただ、差が出るとするなら、
その人がどれだけ、今までの人生で感動することができたかじゃないかなぁ。
それが表情や言葉に現れて、その人の魅力になるのよ」と。
その言葉を実感できたのは、実はごく最近のことだ。
オレは、その時なんとも言われぬ感傷的な気分だったので、過去に見て
感動した映画や動画や本を見返してみた。
しかし、感心はしたものの感動をすることはなかったのだ。
これは驚きだった。なんせ、自分にとっての鉄板ネタのようなモノだと思っていたから(笑)
そうやっていくうちに、ふと思い、そして深く考えた結論は
『感動というのは、自らの積み重ねてきた人生の影を映し出す瞬間だ』
ということだった。
人は、歳(年)と共に成長するゆえに、逆に悩んで立ち止まったりもする。
当然、それと同時に、感性も磨かれたものもあれば、失ったものもあるはずなのだ。
そうであれば、自身に感動をもたらすものも変わっていくし、またそれを必要とする
場面も変わっていくのが当たり前である。
つまり、その時味わった感動とは、その瞬間に切り出された自身の背負ってきた経験を
心で振り返る代弁行為であり、それは幸福も痛みも経験した人間のみにもたらされる
ものなのだ。
だからこそ、その一瞬しか感じることのできない思いを忘れぬよう涙で刻み込まれ、
その積み重ねが、その人自身に心の深みや余裕をもたらしてくれる。
これから自分がどれだけ心を動かす出来事に出くわすかは全く予想もつかないが、
それでも、素直に気持ちに身を委ねながら生きていくことが、人生を楽しむ一つの
方法なのだと納得してみたい。